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第80話
第80話
政孝親父の生家
ニッカウヰスキー愛好者の方々が集まって「○○ニッカ会」、「ニッカクラブ」、「余市会」など様々な会を開いてくださっているが、先日、「東京余市会幹事会」があった際「どうせ集まるなら酒があるところが良い」ということになり、政孝親父の生家(広島県竹原市)へ行こうという話が持ち上がった。
竹鶴家は、古くは『小笹屋』として製塩業を営んでおり、酒株を得て酒造業を始めたのは1733年。庭の竹薮に鶴が飛来して巣をつくったときのこと「古来松に鶴と聞くも竹に鶴とは瑞兆なり」と大いに喜んだ。そこで屋号を『小笹屋竹鶴』とし、竹鶴が姓になったのである。
1982年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された竹原の町並み保存地区は情緒があり、竹原格子と呼ばれる出格子、平格子、組子格子などが見られる。訪ねられた方はお気づきになったであろうか? 道端に電信柱がないのである。私は地下に埋めたのだとばかり思っていたが、景観を損なわないために家の裏側の土地に電信柱を移したということであった。
竹鶴家は入母屋造り(屋根上部が大棟から両側に流れる切妻造りで、その四方に庇屋根をつけた屋根)で、妻入りの前に三尺の庇がある主屋と、南にやや軒が高い座敷が並ぶ。庭に面した廊下に柱はなく、床の間の柱から腕木を通して軒を支えている。
奥にある六畳の茶室の隣には茶会ができるように水屋があるが、実は、この茶室は産室としても使われていて、政孝親父が生まれたのもここであった。酒づくりの建物は補修しながら使い続けており、コクがあるしっかりした味わいの日本酒づくりが行われている。
私が生まれ育った宮野家は広島県福山市にあり、典型的な瀬戸内海式気候で、広島県内でも比較的温暖で過ごしやすいところであった。海が近く、魚がとても美味しかったのを覚えている。毎日のように魚屋が自転車に荷を積んだり、天秤棒で桶をかついで売りに来たものだ。魚屋が荷を広げると新鮮な魚がにぎやかに並ぶ。瀬戸内で獲れる魚は小振りなものが多く、鯛は大きい方であった。
中でも美味しかったのはギザミ。ギザミは瀬戸内海沿岸でよく食べられる魚で、一般的には「求仙(キュウセン)」と呼ばれているが、東日本ではあまり知られていないらしい。熱帯魚のような美しい色をしており、ギザミ(刻=ギザ)があるから、この呼び名が付いたといわれている。他にもチヌと呼ばれる黒鯛や鯖、イカ、タコなどが食卓に上った。
冷蔵庫はあるものの、今のように性能が良いわけではない。いわゆる箱の上部に氷を入れて冷やすという保冷庫で、夏場ともなると毎日のように氷屋が大きな氷を運んで来ていた。そのため魚屋が毎日のように我が家にやって来た。どんな魚がお目見えするかで、「ああ、春が近いな」「そろそろ寒くなってくるぞ」と四季を感じることができたのだが、今やいろいろな魚が年中出回るので季節感がなくなって寂しい気がする。
魚といえば、余市にいた頃、政孝親父はよく釣りを楽しんでいた。地元の漁師とも仲が良く、積丹半島の近くに網を張ったりすることもたびたびであった。翌日引き上げてみたところ、何と畳一畳はあろうかと思われるタコが引っかかっていたことがあった。しかも色が赤味を帯びている。すると漁師が「このタコはニッカ工場から出る廃液を飲んでいるから赤いんだ」と冗談めかして笑った。ちなみにそのタコは大きすぎて、決して美味しい代物ではなく、当時の金額300円で漁師が引き取って行ったのだがどのような使い道であったかはわからない。
政孝親父は、釣りの他にハンティングを楽しんだ。おそらくスコットランドの風習に憧れていたのではないか。東京に引き上げてくるときに「もう熊撃ちをすることもないから、鉄砲を保管して欲しい」と頼まれたことがあった。品物が品物であるだけに、そう簡単に引き取れるものではない。仕方なく免許を取り、保管場所もしっかり確保したのである。
当時は年に一度、警察へ鉄砲を持参して、きちんと管理しているか確認してもらう必要があった。すると担当者が「竹鶴さん、全然撃っていませんね」と笑う。確かに私にはハンティングの趣味がないので鉄砲の先端に錆が出ていた。結局、私が持っていても仕方ないので仙台工場(宮城峡蒸溜所)にいる鳥撃ちが趣味の従業員に譲って、ようやく肩の荷が下りたのである。
私の趣味といえば専ら写真を撮ることだ。昔はゴルフをやったこともあったが、球が飛んでいるうちは楽しかったが、飛ばなくなると途端に楽しくなくなり、止めてしまった。片やいつまで経っても楽しいものはウイスキー。折に触れ、いろいろな方とウイスキーの話をしているのは本当に楽しいものである。