*Firefox最新版をご利用のお客様へ* ページの背景画像が正しく表示されない場合、こちらをクリックお願いします。

第81話

第81話

宮城峡蒸溜所を建設して本当に良かった

宮城峡蒸溜所が操業を始めたのは1969年。今年5月に操業40周年を迎えるのだが、月日が経つのは早いものである。建設委員長として蒸溜所候補地を探し歩いたり、現在の場所に蒸溜所を建設することが決まってからも準備のために東京と仙台をたびたび往復したのが、ついこの間のことのようである。

宮城峡蒸溜所がある仙台市青葉区ニッカ1番地は、新川と広瀬川とが交わり、ウイスキーづくりに必要な条件を満たした土地である。新川は夏を迎えると河鹿(かじか)蛙が鳴いていた。清冽な川にしかいないといわれている河鹿蛙は、その姿に似合わず大変美しい声で鳴くので、昔からその声を聴くためにそっと河原を訪れる人も少なくなかったという。

政孝親父が「この場所に決める!」と断言。他を探そうとはしなかったので、さっそく役場に行って蒸溜所建設を許可して欲しい、と申し出たのだが、役場の助役は「私はウイスキーなど飲んだことがない。本当に旨いのか?」と難色を示した。

そのため県知事のところへも交渉に行き、ウイスキーづくりには良質の水があり、原酒の蒸溜、貯蔵に適した気候風土などの自然環境に恵まれている土地が必要で、その場所こそが宮城県宮城町(当時)であること、自然環境を大切にしたウイスキーづくりを徹底することなどを説明し、許可を得るまでにこぎつけたのである。

1967年7月25日に行われたニッカウヰスキー仙台工場(宮城峡蒸溜所)新設に関する宮城県との共同記者会見では、当時の宮城県知事から「宮城県は商工振興策に真剣に取り組んでいるが、この意味からもニッカウヰスキーの仙台工場(宮城峡蒸溜所)新設計画は大歓迎である。それも臨海地帯でなく内陸部に工場を建てる意義は大きい。単に宮城県ばかりではなく東北開発のため喜ばしいことだ。県としてもあらゆる面で協力したい」というありがたい言葉をいただいた。

それに対して政孝親父も、蒸溜所をつくったからといってすぐにウイスキーが完成するわけではなく、10年先の需要を見込んだ投資であること。しかし、ニッカは自信を持って新工場建設計画を実行し、必ずや質の高いウイスキーづくりを行うことを約束したのである。

この場所に新しい蒸溜所を建てることが決まった矢先、新川の水が濁ることがあった。原因を調べてみると上流で砂利採取が行われていたのである。建設委員の一人が業者に「下流でウイスキー蒸溜所を建築しているので、どうか採取所を移転して欲しい」と頼みに行ったが、先方はなかなか首を縦に振らない。どうすれば承知してもらえるのか考えた挙句、砂利採取業の資格を取得、砂利採取がいかに重要なものであるかを理解した上で再び交渉。業者は「そこまでお願いされるなら」と上流での砂利採取を中止。先方が砂利採取をストップしたことで川はもう濁ることはなかった。さらにその後、我々は新たに良質の砂利が採取できる場所が見つかるよう、お手伝いさせていただいた。

1967年6月、仙台工場(宮城峡蒸溜所)建設委員長に就任して2年弱、雑草と潅木に覆われた荒れ地に蒸溜所が完成するまで、構想に明け暮れ、さまざまな事態にぶつかったが大変勉強させてもらってありがたかったと思った。何より5人の建設委員にはとても苦労をかけたが、その甲斐あって無事、宮城峡蒸溜所が完成。しかしその当時、蒸溜所が完成したことに喜びは感じたが、本当に喜べるのは良いウイスキーが完成したときであるとも思った。

あれから40年。宮城峡蒸溜所ではシングルモルトとして、また優れたブレンデッドウイスキーをつくるための原酒として、豊かな香味を持つ原酒が育まれている。今年1月には、長期熟成の宮城峡モルト『シングルモルト宮城峡1988』も発売され、宮城峡蒸溜所を建設して本当に良かったと実感している。

思えば“何かありそうだ”と立ち寄ってみた荒れ地がウイスキーづくりに最適な場所であったこと、蒸溜所建設に理解と協力をしてくださった県や業者の方、多くの方々の存在があったこと。決定から短期間で竣工できたのはとても幸運なことであった。

数え切れない方々への感謝の意味も込めて、そしてニッカウヰスキーを愛してくださる皆様の期待に応えるべく、我々つくり手は、より精進しなければならないと思うのである。