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第47話

第47話

頑固なまでに当時の姿のままである。

先日、ある人から「ウイスキーづくりは大学で勉強したのですか?」と尋ねられた。この質問はたびたびあるのだが、私がウイスキーづくりに実際に携わるようになったのは、余市蒸溜所に勤めるようになってからである。

私が発酵の基礎を学んだのは、広島高等工業専門学校(現・広島大学)発酵科である。そこで発酵の基礎と日本酒の醸造方法については若干勉強したが、ウイスキーづくりに関する学科はなかった。しかし、発酵はウイスキーづくりにも深い関わりがあるため、現場でとても役に立った。発酵がスムーズに行なわれなければ良質の蒸溜液を得ることは出来ない。これはウイスキーばかりでなく他の酒類にも言えることである。

当時、ウイスキーに関する文献は極めて少なく、政孝親父から譲り受けたある書物にほんの数ページの記述があるくらいであったが、糖化槽のイラストが上下逆さまになっているのには正直、苦笑したものである。もっとも、ウイスキーづくりに関する知識や資料などがほとんど無い時代には無理からぬ話だったのかもしれない。そう思うと「竹鶴ノート」は実に緻密に、正確にウイスキーづくりについて書かれていたのではないか。

ウイスキーづくりは余市蒸溜所で現場経験者からの直伝以外、ほとんどゼロからのスタートであったが、不安というものは無かった。改善すべきところを改善してやっていけば良いのだ。当然ながらウイスキーは樽で熟成させて初めて商品となるものである。すぐに結果が見えないのでリスクもあると思われる場合もあるが、良い原料を使用し、蒸溜までの工程が順調に行なわれれば、それは良いウイスキーに仕上がると思って構わない。

さて、ウイスキーの器となるボトルの話であるが、『スーパーニッカ』の手吹きボトルに関心を持っておられる方がいらっしゃった。3年前、発売40年を記念し、わずかな本数を復刻させたのだが、これは販売したのではなく何らかの景品として差し上げたように記憶している。

スモークがかかったもので、昭和37年当時のボトルと比べるとやや丸みを帯び、首の長さは昔のもののほうが若干長い。対になったボトルと栓にナンバーが刻まれており、このナンバーが合わないとしっかりと栓が出来ないのだが、これも手吹きの良さではないだろうか。

各務(カガミ)クリスタルで初めてスーパーニッカのボトルと対面したとき、「これがいい!」とボトルを抱きしめて離さなかった政孝親父。あれからもう40年以上が過ぎたが、『スーパーニッカ』のボトルは頑固なまでに当時の姿のままである。手吹きから機械製瓶にこそ変わったが、あの独特の形はこれからも変わらずにいて欲しいものである。よくバーなどで「ボトル棚のスペースを余分に取ってしまう」と言われたことがあったが、こう言われるときは決まって売上げが伸び悩んでいるときである。売れ行きが好調になると、ぱったりと言われなくなるものだ。

思えばスーパーニッカは、いわゆる“自己満足”のウイスキーであった。あまり売れると貯蔵庫の原酒が底をついてしまう。価格も昭和37年当時で 3、000円と高めだったので「さほど売れないのではないか」とタカを括っていたのだが「うまい」と好評だったのと、インフレに見舞われても価格を上げなかったことで好調に売れ行きを伸ばし、多いときには年間120万ケースを売り上げたこともあった。その間に宮城峡蒸溜所でのグレーン原酒も完成し、原料となる原酒の量も増えたので現在に至るまで『スーパーニッカ』を世に送り出すことが出来ているのである。

肝心の『スーパーニッカ』手吹きボトルの復刻であるが、現在のところその予定はないようだ。いずれにしても、『スーパーニッカ』に愛着を持ってくださっている方の存在というのは誠に嬉しいものである。リタおふくろが亡くなり、意気消沈していた政孝親父を支えたのは『スーパーニッカ』をつくることへの情熱であったと言っても過言ではないし、私もそのブレンドに携わることが出来たことを誇りに思っている。

6月20日は政孝親父の誕生日であった。リタおふくろと『スーパーニッカ』を飲んで祝っただろうか。