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第45話

第45話

食にまつわる思い出話

最近、外食していてつくづく感じるのだが、日本の食文化は随分と変わってきているのではないか。調理法や料理の出し方など、ときに驚かされることがある。フランス料理店では、たいそう大きな皿の真ん中に料理がこじんまりと盛られていたかと思うと、和食の店では、まるでフランス料理のような盛り付けがなされていたりする。飲食店が増えて競争が激化する影響で工夫を凝らすようになったのか、料理そのものに変化が起きているのか。いずれにしても驚かされたり、感心したり。実に面白いものである。

食といえば、私の食生活に大きな変化が起こったのは、政孝親父の家に養子に入ったときであった。今でこそ品種改良がなされて美味しいお米が食べられるようになったが、当時、北海道で作られている米はあまり美味しいものではなかった。そのため内地米(本州の米)を取り寄せて食べていた。

山田町の家には西洋風の竃(かまど)があり、鉄釜で米を炊いていた。竃は横浜で購入したものだが、よくも遥々、余市まで運んだものである。竃は下から石炭をくべるもので火加減が難しい。そのせいか、時折リタおふくろは米を焦がしてしまうことがあり、真っ黒に焦げた飯が家の外のゴミ捨て場にそのまま捨ててあった。しかも釜の形そのままに、ひっくり返した状態である。日本には「米を粗末にしてはいけない」という教えがあるがスコットランド人のリタおふくろには、その概念がなかったようである。

その代わりにパンと牛肉はとことんまで使っていた。固くなったパンは缶に入れて保管し、お菓子を作っていた。パンを粉にしてバターとマーマレードを加えて作ったゴールデンプディングは、色が綺麗で、とても美味しかった。ローストビーフの残りは捨てずに、サイコロ状に切り、上にマッシュポテトを乗せ、オーブンで焼いてシェパードパイに。広島では専ら和食ばかりだったので、とても珍しかったのを覚えている。

余市へ行ってから初めて食べたものの中で、驚いたのは納豆であった。政孝親父は豆が大好物だったので納豆もよく食べていたし、意外なことにリタおふくろも少しは口にしていたが、私は、すぐには馴染むことが出来なかった。当時、広島では納豆を食べる習慣がなかった上に、あの独特の匂いである。しかし、不思議なもので食べているうちに平気になり、匂いも気にならなくなった。

唯一、私が食べられないのは「海のパイナップル」と呼ばれているホヤ。酒の肴に最高という人もいるが、こればかりは苦手である。ホヤは海底の岩礁に着生する原索動物で、古語で寄生することを「ほや」といったことからこの名が付いたといわれているが、これを最初に口にした人は大したものである。

珍しい食べ物といえば、ナマコがあるが、政孝親父はナマコもよく好んで食べていた。リタおふくろが、生のナマコを器用にさばいて酢の物を作ったりして、よく調理したものである。政孝親父があちこち食事に連れて歩いたときに、カウンターで板前が調理をしているのを見て覚えたり、家のお手伝いさんに教わったりしたのだろう。いつだったか、政孝親父が「わしのイカの塩辛は最高だぞ」と自慢していたことがあったが、ほとんどはリタおふくろが作ったものであった。私は料理をほとんど作ることはないが、技術屋なのでやれば出来るのではないかと思っている。余市には漁港があり、新鮮な魚が手に入りやすかったが、リタおふくろがお手伝いさんに買い物を頼んだときに、こんな話があった。「活きのいい魚を買ってきてね。タケツルと言えばわかりますから」と、リタおふくろが頼んだところ、魚屋へ行ったお手伝いさんは「外国の人は珍しい魚を食べるものだ」と思いながら、店の人に「タキツルという魚をください」と言ったそうだ。「はて?そんな魚は聞いたことがない」と店の人に首を傾げられ、怪訝な様子で帰ってきたらしい。リタおふくろは、竹鶴と言えばお勘定をツケにしておいてくれるから、と言ったつもりだったのだが、日本語に少し訛があるのでお手伝いさんはタキツルという魚があると勘違いしたのだった。

食にまつわる思い出話は尽きないが、食というものは生きるために重要なものであり、同時に、その国の文化でもある。日本のウイスキー文化はまだまだ浅いが、これからも良い品質の美味しいウイスキーづくりに携わっていきたいと思っている。