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第2話

第2話

もし、1日早く帰っていたらしんでいたかもしれなかった。

技術系やケミカルに興味があった私は中学を卒業後、広島工専醗酵工学科に進んだ。戦火はますます激しさを増し、学徒動員で千葉県稲毛にあったアルコール工場に徴用されることになった。私はそこで約1年、アルコールをつくった。ただし飲むためのアルコールではなく軍事用、つまり燃料用アルコールだった。

学徒動員から福山に戻ることになり、私は汽車の中で何度も安堵の溜息をもらしていた。もうすぐだと思っていたとき急に汽車が止まった。しばらくして「この列車は広島を通過できません」というアナウンスが流れた。8月6日。まさにこの日の朝、広島に原子爆弾が投下されたのだった。当初は原子爆弾ということは知らなかったが、もし1日早く帰っていたら死んでいたかもしれなかった。

私はいったん福山の自宅に戻り、1週間後に学校へ行ってみた。ふっと脳裏に東京大空襲で焼けた町の光景が浮かんだ。空襲があった3月10日の翌日、広島から千葉に戻る途中、品川駅へ降りた。建物は壊れ、たくさんの人が亡くなり、焼け出され路頭に迷っている人もいた。煙が立ち込める中、飲まず食わずで焼け跡を歩いて千葉まで戻ったのだった。

広島駅に着いて見た焼け跡の状況は、これまでに見てきた焼夷弾攻撃による焼け跡に比べて見渡す限り平たんに見えた。それほどまでに破壊力が大きかったのであろう。焼け跡を歩いていると悲惨な光景が次々に目に飛び込んできた。真っ黒に焼け焦げた屍体がごろごろと転がっている。歩いている人は殆どいなかったが、たまにすれ違う人は皆傷つき、ボロボロの服をまとっていた。壊れた水道からチョロチョロと水が出ているのを見つけた私は、急に喉の渇きを覚えて柄杓に水を汲んだ。そのとき腕を怪我した女性がそばにやって来た。「どうぞ」と柄杓を彼女に差し出すと「あなたはどこもお怪我がなく、よくご無事で」と不思議そうに言われた。

学校があった場所へ行くと建物は潰れ、屋根瓦の下からは凄まじい匂いが漂っていた。屍体が残されていたのだろう。学校の人から「当直をやれ」と言われて、私は後片付けを手伝った。友達の家へ行ってみたが、すっかり潰されていて瓦を掘り返してみると骨が出てきた。食事をしていたのだろう。骨は食卓の両側に座ったままのような形で並んでいた。

当時広島に投下されたのが「特殊爆弾」としか報道されていなかったため、私は原子爆弾がどのようなものかを知らずに友達を探して爆心地を何日も歩き回った。テントの中で10日くらい過ごしていたので残留放射能を浴びているはずだが、不思議なことに病気にはかからなかった。

運がよかったのだと思った。福山も爆撃されたが実家は焼けなかったし、広島の下宿先も焼け残った。しかし庭の柊の葉が、放射能のせいか一部茶色に変色していた。私は葉を採り厚紙に貼ったが、これは現在も私の手元にある。これを見るにつけ、戦争の悲惨さを改めて痛感させられる。
やがて終戦を迎え、世の中はどうなるかわからない状態にあった。すると暮れになって叔父の政孝から電報がきた。「何をしている。早く北海道に来い」。私は自分が養子だったことを思い出し、大慌てで北海道に向かったのである。