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第3話

第3話

広島から余市へ。北海道での生活始まる。

実父母も「(養子の件で)北海道へ連絡しなくて良いのか?」とは一言も言わなかった。戦争終結で世の中がどう変わるか見当もつかない時代であった。そんな折、政孝おやじから「早く来い」と電報がきて広島を発ったのは1945年の12月20日。私は慌てて余市へと出発したのだった。その当時、寝台車など贅沢なものはなかったので、鈍行列車の長旅であった。青森までは殆ど立ったままの状態で、ようやく駅に着いたのだが満員で青函連絡船に乗れない。半日近く待っている間、あまりにも寒いので皆、駅の壁板を剥がして焚き火をしていたが、駅員は咎めるわけでもなく見て見ぬ振りをしてくれていた。

青函連絡船で函館に渡り、函館本線で余市へ。駅に着くと政孝おやじとリタおふくろ、工場の人たちが出迎えてくれた。着いたその日は疲労困憊でバッタリと倒れるように眠ってしまった。翌朝いつまでたっても起きてこない私を心配したリタおふくろが「威が死んでしまったかと思った」と、冗談交じりに笑っていたのが思い出される。また「初めて家に来た晩に、あんなにぐっすり眠るなんて。その姿を見ていると、とっても可愛かった」と喜んでいたようだが、こちらは疲れと睡魔で何処であろうがぐっすり眠れたに違いなかった。

年が明けて1946年の4月、北海道大学に入学。学部は工学部で戦時中は燃料工学科といっていた応用化学科だった。最初は農学部の農芸化学を考えたが、政孝おやじが「北大の農学部は伝統があって、役人なんかに先輩が沢山いる。頭が上がらないと困るから新しく出来た学部に行ったほうがいい」と勧めてくれたのと、私自身「何かをつくる」という点で「化学」にも興味があったこともあって、応用化学を選んだ。さすがに余市から通うことはできなかったので、札幌の豊平にいた伯父(政孝おやじの兄で、当時、北炭の常務)のところに下宿。当時の応用化学科の学生は30人で、これに対して職員が50人もいて、実験室も整っていたので勉強するにはとても素晴らしい環境であった。学んだのは化学と工学関係。醸造関係の講義はなかった。

夏休みになると余市に戻った。余市は空襲を受けていなかったので工場は無傷だったが、「ウイスキー工場があったため空襲を受けなかったのではないか」と、後に進駐軍将校の談話にあった。当時、工場にはよく進駐軍が来ていた。ウイスキーを買いに来たり、英国人のリタおふくろを慰問に来たりで、そのたびにチョコレートや缶詰類をたくさん貰ったものだ。広島に比べれば海の幸、山の幸が豊富な余市の食糧事情は恵まれたものだったが、いざ酒がないとなると、大変貴重品になるものらしい。ウイスキーなど出回っていない時代だったので工場で出来たウイスキー1本を米俵1俵と交換出来たこともあったという。

学生時代は勉強は勿論だが、仲間と道内の山、ニセコ、羊蹄山、大雪山を登って写真を撮ったり、映画を観に出かけたりして楽しんだ。確か「風と共に去りぬ」も観たような記憶がある。酒のほうは、歓楽街で飲むことはなかった。終戦後で売る酒自体なかったのかもしれない。そして1949年に卒業し、いよいよ余市の工場の研究室に入る事になるのである。