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第1話
子供の頃、父が書いた製図や建築物の青写真を、飽きもせず眺めていた。
私は大正13年3月6日、広島県福山市で生まれた。父、宮野牧太、母、のぶよの間の6人兄弟の4番目で、5番目までが男という家族であった。
家は全く酒づくりには関係なく、父は土木関係の技術屋で福山の私鉄の敷設なども行っていた。かつては日立製作所や朝鮮鉄道の敷設に携わっていたこともあり、職業は?と尋ねられたなら“フリーの設計技師”といったところだろうか。今でこそ留学は珍しくないことだが、父は京都大学土木工学科を卒業後アメリカのボストンに留学して、土木や建築技術を学んだこともあったという。その点では政孝親父に通じるものがあったのではないか、と思い出される。
子供の頃、私は興味を惹かれ、父が書いた製図や建築物の青写真を、飽きもせずに眺めていた。そのせいかどうか子供心に「技術屋になりたい。そして何かいいものをつくってみたい」と思うようになっていた。発明家エジソンに憧れたのもその頃。当時は酒のことは全く頭になかった。
仕事を黙々とこなす無口な父の趣味は写真だった。よく家族の写真を撮ってくれたのを覚えている。当時のカメラは長い蛇腹が付いていて、フイルムはガラス板。真っ黒な布を被って撮影するという、仰々しいものだった。私は父が自宅に設えた暗室で写真を現像する様子を、よく隣で見ていた。これがとても面白かった。ほの暗く赤い部屋の中、液体に浸した紙に自分や家族の顔が浮かび上がってくる。子供の私にとっては手品のようであり、同時に好奇心をくすぐるに充分な代物であった。
小学校、旧制中学校(福山誠之舘中学校)と進み、私は広島工業専門学校の醗酵工業科に入学した。その在学中、私に養子縁組の話が舞い込んできた。「自分の技術、ウイスキー造りを継いでくれる後継者が欲しい」ということであった。それが母の弟である竹鶴政孝。叔父・政孝と妻であるリタには親戚が集まる法事のときなどに顔をあわせていた。
「随分声が大きい、面白い叔父さんだ」と子供心に思ったものだった。(政孝とリタが)帰国してしばらくは大阪に住んでいたのでリタおふくろにも小さい頃から会っていて外国人、という特別な意識はなかった。
「初めて会ったのは威がお母さんのお腹にいたときよ」と言われたのを今でもよく覚えている。
兄弟は学校も出て、進む道が決まっていたし、叔父のことは良く知っていたので養子縁組も「名字が変わるだけ」ぐらいにしか思わなかった。世は第二次世界大戦の真っ最中であった。