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第18話
第18話
私は「ここだ」という確信のようなものを感じ取っていた。
「モルトウイスキーは、同じ時に、同じ方法でつくっても、育つ環境によって、大変違ったものになる。それらをブレンドすることで更に味わいは深みを増し、新しい個性が誕生するのだ」
スコットランドでウイスキーづくりを学んだ政孝親父はそう確信していた。そして、その信念が現実へと向かって動き出したのが昭和39年。『ハイニッカ』発売と共に湧き起こったウイスキーブームも決断の後押しとなった。
まず良質の水、新鮮な空気、原酒の醸造・蒸溜・貯蔵熟成に適した気候風土などの自然条件に恵まれていることを条件に、スコットランドでいえばローランドに当たる東北地方を調査していった。
ある日、私は千葉県柏工場長の小山内裕三と共に仙台の奥地を歩き回っていた。やがて辿り着いたのは、広瀬川と新川の合流点。広瀬川にかかった橋を渡って進んでいくと、湿気を帯びた荒地が姿を現した。生い茂る熊笹をかき分けていくと、新川の清冽な流れがあった。サワシバや山栗がポツポツと生えた寂しげな場所だが、私は「ここだ」という確信のようなものを感じ取っていた。それが、土地が持つ匂いのようなものだったか、ウイスキーづくりを続けているうちに知らぬ間に身についた勘だったか。いずれにしても、これまでの候補地では感じられなかった何かを感じたのは確かであった。
政孝親父を伴って、改めてこの地を訪れたとき、再び熊笹をかき分け、新川の川原へ行った。きれいな水流を見た政孝親父は「おい、ウイスキーを持って来い」と言い、川の水で水割りをつくって飲むと「ここに決めよう!」と大きく頷いた。しかし、まだ他にも候補地があったため「念のために他の場所も見てからでは」と言ってみたが「これ以上のところはない。ここに決めた」と、他の場所は見ようとはしなかったのである。そして「すぐに土地の所有者を調べろ」と命じた。昭和42年5月12日のことであった。
建設委員会で協議して、建物の配置は設計事務所と共に行っていた。広瀬川にかかった橋を渡った場所に入口を作る予定だったのだが政孝親父は「そちらは鬼門にあたるので良くない。昔から言い伝えられていることは守るものじゃ」と言い、川沿いに道路を作ることになった。これには技術屋である政孝親父の意外な一面を垣間見た気がした。そして鎌倉山を借景に建物を配置したのも「(蒸溜所に)入って行って、パッと視界が開けると気分いいじゃろう」という政孝親父の提案であった。
スチーム式のポットスチルを採用したのは余市の石炭直火製法とは違った、やわらかな味わいのウイスキーをつくるためであった。また、当時のウイスキー蒸溜所としては画期的な、コンピューター制御の蒸溜所であった。しかしながら従業員たちはコンピューター室にこもるわけではなく、自らの意思で、現場に出て施設をチェックしてまわった。「品質の高さを確実なものにするためには、自分たちの目で見て、香りを嗅いで現場をみなければならない」という彼らの意気込みに感服したものだ。
昭和44年5月10日、ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所が誕生した。約20万平方メートルの敷地にキルン棟、発芽室、仕込室、醗酵室、蒸溜室、ブレンド室、6棟の貯蔵庫などが林立する。ときに遠くシベリアからオオハクチョウが飛来したこともある池は蒸溜所のシンボル的存在だが、実は工場の設計図に池はなかった。
砂利層の土地だったので砂利を掘って道路の基礎に使った。最初は芝生を植えるか、野球のグラウンドにでもしようと考えていた。しかしそこに雨水が溜まったので、新川から水を引くと立派な池が出来上がったのである。池の住人は錦鯉や新川から拾われてきた川亀、そして余市蒸溜所のニッカ沼にいた白鳥のつがい。よほど環境が良かったのか、なかなか孵らない白鳥の卵が、ここではよく孵り、可愛い雛が誕生した。どこかユニークな形をした岩の島は、川亀同様、新川からやってきたものだ。
建設を請け負った企業は「宮城峡蒸溜所の誕生を祝って何か贈り物をしたい」と政孝親父に申し出た。工事の進み具合を視察にやって来て新川の水割りウイスキーを飲んでいた政孝親父は、「御社は土木工事が得意だから、あの岩を池にどうだろう」と川の対岸にある岩を所望した。半分冗談でもあったと思うのだが、その仙台支店長は「お安い御用です」と請け負った。これがひと騒動であった。
岩を運ぼうとしたのだが、地中深く入り込んでおり、掘り起こすのは不可能だった。ある日、建設委員長をしていた私のところに当の企業から「折り入って話がある」と連絡があった。何事かと思いきや「政孝社長にお約束していた岩を運ぼうとしたところ地中部分が深くて掘り起こせません。発破をかけて砕き、池で組み立てることで許して貰えないか」との話で、それを聞いた政孝親父は大笑いして承諾したのであった。ちなみに、岩を持ち出すには県庁の河川課の承諾が必要なため、払い下げの申請に岩の写真を持って行ったのだが、大きさが把握しにくかったのか算定金額は400円。何かとエピソードのある贈り物である。
余市蒸溜所に続いて、西宮にカフェグレーン製造設備を設置。そして、宮城峡蒸溜所の誕生。ウイスキーづくりの設備は着実に充実していった。大志を抱いて単身スコットランドへ渡ってから50年余り。数知れぬ試練はあったであろうが、理想の実現を果たした政孝親父は誠に「幸せな男」である。