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第19話
第19話
ウイスキーは、まさに人間接着剤である。
昭和24年に大日本果汁(現ニッカウヰスキー)に入社して以来、もう半世紀以上、ウイスキーづくりの仕事に携わってきた。より素晴らしい品質のウイスキーづくりを目指し、日々過ごしてきたが、時折ふっと「酒というものは実に不思議な存在だ」と思うことがある。
酒を人に喩えるとしたら、その人生たるや波乱万丈である。神仏に捧げられる神聖なものであったり、薬であったり。やがては人を癒す嗜好品になるのだが、酒が良薬になるかトラブルメーカーになるかは飲む人の匙加減ひとつである。私にとっての酒は楽しい雰囲気をつくりだしてくれるうえに、人間接着剤の役割を果たしてくれる喜ばしい存在だ。懐かしい友と語り合いながら飲むウイスキーは、心をほっと温かくしてくれる。初対面の相手と私の間を取り持ってくれるウイスキーは、まさに人間接着剤である。
この仕事をしていると、自ずとウイスキーづくりの話になる。「なぜ、ウイスキーは、これほどまでに複雑な香りがするのか」、「余市蒸溜所と宮城峡蒸溜所のウイスキーは何故味わいが違うのか」等々。当然ながら得意分野の話なので、話が弾む。初対面の相手と向かい合い、何を話せばよいのかぎくしゃくして気まずい雰囲気になるという憂き目に遭うことはない。
今は亡き、作家の藤島泰輔氏ともよく飲んだものだ。飲んでいるときに彼が、急に静かになったので隣を見ると眠っておられる。では、そろそろ帰宅しようかと思っているとむっくり起き上がり「次の店へ行こう」と言う。
そんな藤島氏と思いがけぬところで偶然会ったことがあった。パリのシャルル・ド・ゴール空港である。平成元年にフランスのコニャック地方、ドン・ピエール蒸溜所の経営権を取得した年だった。同じ便で日本に帰国するところで、2人並んで席を取った。藤島氏はパリの凱旋門近くのコンドミニアムを所有していて、そこで原稿を書いていたらしい。なんでも煩わしい電話や呼び出しがなく、執筆がはかどるのだという。周囲に迷惑がかからぬようボソボソ話しながら2人でコニャックやカルバドスを何杯か飲んだ。だんだん酔っ払ってきて最後のほうは何を話したか覚えていないが、そのときは藤島氏の癖である居眠りはなかった。
去年の11月21日、突然ご逝去された高円宮憲仁親王殿下とも、銀座や六本木で酒席を共にした。初めてお目にかかったのは殿下が学習院大学に通われている頃で、二十歳になられたくらいであったか。ウイスキーは専らオン・ザ・ロックで、ピートが強いコクのあるタイプがお好みのようで、『ピュアモルト』の白(ホワイト)をよく飲まれていた。
随分前の話だが、いつも殿下についておられる側衛官(護衛を担当する皇宮警察官)の姿が見えなくなったことがあった。「どうされたのですか?」と殿下に尋ねたところ「ああ、帰って戴きました」とあっけらかんと仰る。当時は今ほど厳しくはなかったのであろう。しかしそうなるとこちらが側衛官の役目も果たさなければならない。少々緊張して飲んだのを覚えている。ご自分から「帰る」と仰られることはなく、こちらが「そろそろお時間が・・・」と切り出すとお開きの時間。側衛官を返してしまったときは私が東宮御所へお送りしたこともあった。
殿下は話題が豊富で、実に楽しくお酒を召し上がる方だった。ギターやチェロを演奏されるということもあって、歌も大変お上手。ただし親しい人ばかりのとき以外は、マイクを握ろうとはなさらなかった。
昭和63年にはご夫妻で余市蒸溜所で「マイウイスキーづくり」にも挑戦された。ツナギ姿で釜を焚き、樽を転がす。とても楽しそうなご様子で、10年後に出来上がったウイスキーをお贈りすると大変喜ばれ、侍従や親しい方にもプレゼントされたという。ちなみに殿下のウイスキーは、ヘビーピートではなくノーブルな味わいのものだったように思う。
殿下に最後にお会いしたのは昨年10月19日に開催された東松山の森林公園でのグラススキーを楽しむ会であった。ご多忙にもかかわらず、日本グラススキー協会総裁を快く引き受けてくださった殿下は、ご自身もスキーやサッカーなどスポーツを楽しまれており、体調が悪いという話などは一度も聞いたことがなかった。「12月に六本木で忘年会をしましょう」とお約束をしていただけに、突然の訃報にはただ驚くばかりであった。
酒が縁で知り合った方々の数だけ、様々な思い出がある。もしもこの世に酒が存在しなかったら。もちろん私はこの仕事をしていなかっただろうし、人生もずいぶんと違うものになっていたであろう。一杯のウイスキーが私に与えてくれたものは仕事の試練であったり、喜びであったり、発見であったり。しかし何より素晴らしい人間関係をもたらしてくれたことに、感謝の意を表したい。