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第64話
第64話
酒は、人と人をくっつける接着剤
1987年から余市蒸溜所で始めた「マイウイスキーづくり」に続いて、2002年より宮城峡蒸溜所で「マイウイスキー塾」を行ってきた。「宮城峡マイウイスキー塾」はグレーンウイスキーの設備やウイスキーの製造工程、樽づくりを見学したり、オリジナルのブレンデッドウイスキーをつくるブレンドを体験したりしていただくというもの。樽詰めしたモルトウイスキーは10年後、参加された皆様の手元に届くようになっている。
おかげさまでたくさんの方々にご参加いただき、大変有難いと思っている。一般的に嗜好品は商品が完成してから楽しむものであり、なかなか製造工程まで目にすることは出来ない。すべての工程を詳しくご紹介する、とまではいかなくとも、一部を体験することでウイスキーにより関心を持っていただけるのは幸いである。
遠路はるばる四国から余市蒸溜所に7回、宮城峡蒸溜所に3回おいでくださった方から一通の手紙が届いた。そこには美園の丘にある政孝親父とリタおふくろの墓の前で撮られた記念写真と、墓前に飾られた見事なバラの花の写真が同封されていた。バラは美しいピンク色で「墓石が赤色を帯びた御影石なので、この色が良いと選びました」とのこと。わざわざ四国を発たれる前に、墓参のために蒸溜所に送ってくださったのだという。
蒸溜所見学には多いときで20人くらいのグループでいらっしゃるので、余市には、札幌雪祭りが終わって飛行機のチケットが比較的安い2月にお見えになっていた。季節柄、毎回、雪が積もっている状態である。かねてから(政孝親父とリタおふくろの)墓参りをしたいと思われていたそうだが、冬は1メートルを越える積雪で、とても墓がある場所までのぼっていくことなど出来ない。そこで墓参りが出来る暖かな時期に5人の代表の方々が余市を訪れ、美園の丘まで足を運んでくださったのだった。さすがに蒸溜所には合計10回訪れているので、今度は東京・南青山の『ニッカ ブレンダーズ・バー』へ行こうということになり、もう2回も訪ねてくださったという。
お手紙には「私の愛するニッカウヰスキーをつくってくださった御礼と本場のウイスキー文化を残していただいた御礼を(墓前で)申しました」と綴られていた。一度もお会いしていない方にこのような言葉をかけていただけるとは。本当に政孝親父は幸せな男である。
親父の著書「ウイスキーと私」には、こんなことが記されていた。
「・・ハイランドタイプのモルトをつくる工場(北海道)、ローランドタイプのモルトをつくる工場(仙台)、それにカフェ・グレーンモルトをつくる工場(西宮※)を持つことなどは、資金だけでなく、限られた残りの人生から見ても、全く夢であった。三百数十年の歴史をもつスコットランドでも、三つのタイプの工場をつくった企業人もいない筈である。幸いにも、命ながらえて、その宿願を達することが出来た。私は、ウイスキーに生きた男としての幸せを、今更のようにかみしめている。」
※1999年、「カフェ式蒸溜機」を宮城峡蒸溜所に移転
その喜びは、今もニッカでつくられるウイスキーのなかに息づいていると私は思うのである。
さて、オープン当初は内心大丈夫なのだろうか、と心配したブレンダーズ・バーだが、早いもので3年が過ぎた。メニューに月替わりのオリジナルウイスキーを用意したり、マスターブレンダー以下、生産技術センターのブレンダー室に所属するメンバーをはじめとした技術者が定期的に店を訪れ、ブレンドやテイスティング、商品づくりの解説をしたりと他のバーにはないサービスを行ってきたが、それが功を奏したのか多くの方々にご来店いただけるようになった。
私がブレンドしたウイスキーもお出ししているのだが、この店にお越しくださる方々のためにブレンドしたもので、甘く芳ばしい樽熟成香と果実の香り、軽やかな味わいに仕上がっている。ブレンドにはブレンダーの個性が出るというが、果たしてどうであろうか。イベントなどで私も顔を出すことがあるのだが、そこでニッカファンの皆様とお話をすると、改めてこの仕事に携わっていて良かったと思う。
幼少の頃、私は発明家になりたいと思っていたことがあった。あのまま夢を叶えていたら、皆様にお会いすることはなかったのである。ブレンダーズ・バーで最初にお会いすると、ほとんどの方は緊張なさっていて、まるで茶室でお茶でも飲んでいるような雰囲気だがウイスキーが入ると舌も滑らかになり、とてもにぎやかなムードになる。
酒は、人と人をくっつける接着剤のようなものだ。宿願を達することが出来た政孝親父は幸せ者だが、その夢を引き継いだ私もまた、幸せ者である。