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第62話
第62話
思い出深い宮城峡蒸溜所
『ブラックニッカ クリアブレンド』(現在はブラックニッカクリア)のパッケージが新しくなって、随分と垢抜けた感じになったようだが、ボトルの形やラベルのデザインを少しずつ変えていくのは日本のウイスキーばかりでなくスコットランドも同様である。
『ブラックニッカ クリアブレンド』は、原料の大麦麦芽(モルト)をピート(草炭)を燃やして乾燥させるではなく、熱風で乾燥させているのでピート独特のスモーキーフレーバーがない。そのためクセがなく、飲みやすいというのが特徴だが、時代によって求められる味わいが少しずつ変化していくというのは実に面白いものである。
グレーンウイスキーを使った『新ブラックニッカ』が誕生したのは1965(昭和40)年。「特級をも凌ぐ」という広告コピーは、当時大変話題になり、1000円ウイスキー戦争なるものが勃発したのを覚えている。前年に発売した2級ウイスキー『ハイニッカ』と共に売れ行きが好調で、バーだけでなく家庭用消費も大幅に増え、第二のウイスキーブームが到来した。ニッカウヰスキーにとって決して順風満帆とはいえなかった状況で初めてといえる繁栄のときではなかったか。これは、グレーンウイスキーをつくるカフェ式蒸溜機の導入が功を奏した理由のひとつだったのだと思う。
カフェ式蒸溜機をスコットランドから輸入し、西宮工場内(現在は宮城峡蒸溜所に移転)に設置して運転を始めたが、当時でも前世紀の遺物のような機械である。本場スコットランドでもほとんど使用されていないうえに技術指導に来たスコットランド人が早々に帰国してしまったため、悪戦苦闘するのは目に見えていた。試運転の最中に原料が詰まってしまい空転してしまうこともたびたびで、試行錯誤の末、ようやくバランスの良いスピリッツが採れるようになったのである。当時の技術担当者には本当にご苦労をかけた。
宮城峡蒸溜所は私が建設委員長に携わったということもあり、余市蒸溜所とはまた違った愛着がある。余市に次ぐ第二の蒸溜所を建設するにあたり、岩手県和賀町等、候補地は幾つかあったが、なかなかこれといった決め手がなかった。たまたま車で通りかかった仙台の作並温泉近くに車を止めると緑豊かで、地図を調べると川があることがわかった。
蒸溜所を建設する場所を探していることを公言してしまうと地価が跳ね上がる恐れがあることと、灌漑用水との係争を避けるために「地質考古学の調査をしている」という名目で土地について聞いて回ったところ(現在の宮城峡蒸溜所の脇を流れている)新川は100年間一度も枯れたことがないということであった。
政孝親父がこの川の水でウイスキーの水割りを飲んでいっぺんで気に入り、建設に取り掛かったのだが、「出来るだけ地形を元のまま残せ、樹を切るのは必要最低限にとどめろ」という親父のこだわりは変わらない。実際、宮城峡蒸溜所は土地の高低差があるためにひとつとして同じ床高の建物がないのである。また、樹を残すために道路やケーブルを迂回させているので作業効率は多少悪い。しかし、これも自然を大切にするニッカらしいといえるのではないか。
宮城峡蒸溜所が完成するまでに仙台でのウイスキーのシェアを伸ばさなければ、と国分町等の繁華街へ赴き、飲食店をハシゴして回った。そして、東京と仙台の往復の日々が続いた。当時は小型プロペラ機が運航していたので何度か乗ったが、悪天候のときは酷かった。雲の下を飛ぶので、上空で雷が鳴って機内は稲光でピカピカ。風が強いと機体がお尻を振るように進むので、後ろのほうの座席に座っていると揺れがひどく、決して快適な空の旅とはいえなかった。
列車を利用するときは仙台で営業まわりをした後、10時の夜行に乗って東京に戻る。あるとき列車の座席で眠っていると、あまりに静かなので逆に目が覚めたことがあった。時間調整のために何処かの駅に停車しており、時折、他の列車が汽笛を鳴らしたり蒸気を吐く音が聞こえたり、とても情緒ある光景が車窓の外に広がっていた。
東京駅に到着するのは朝6時くらいなので駅にある公衆浴場で入浴して、少し休憩してから9時に会社に出社。これを幾度となく繰り返していくうちに宮城峡蒸溜所が完成したのである。竣工式は全国から酒販業の方々などお客様を招いて盛大に行われた。東京からは特別列車が出て、社内では食事やウイスキーなどが振舞われ、大変好評だったようである。
思い出深い宮城峡蒸溜所も、早いもので誕生して38年。これからもより品質の優れた、皆様に喜んでいただけるウイスキーづくりに励むばかりである。