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第6話

第6話

孫の誕生に政孝親父もリタおふくろもとにかく大喜びだった

余市の工場で働き始めた私に、政孝親父とリタおふくろは、しきりに「早く結婚を」と勧めるようになった。一度目は東京の叔母の紹介で見合いをしたのだが、気が早い政孝親父は「披露宴の手配をしよう。場所は帝国ホテルがいい」と、すっかり話がまとまったものとして準備を始めようとしていた。当時、結婚と言えば見合いが当然という風潮があった。そんな時代にリタおふくろと恋愛結婚した政孝親父が周囲をあっと驚かせたのは無理からぬ話だったに違いない。しきりに見合いを勧める親父に、内心(自分の事は棚に上げて)と思ったものだ。しかし周囲はどんどん話を進めようとする。私は少々気が滅入り、相手の方に「まだ結婚は考えておりません」と直接断りの返事をしたのだった。そのことを親父に言うと「わっはっは。そうか」と笑っただけで、一度目のお見合いは「縁がなかった」ということに。

それからしばらくして、日銀の小樽支店長の紹介で小樽の海運会社社長の長女と見合いをする事になった。第一印象は「良い感じのお嬢さん」。
見合いから一年後、私たちは結婚した。それが妻の歌子である。結婚式は1951年の6月3日。小樽グランドホテルで式を挙げた。福山の実父、実母も参列し、政孝親父も大変喜んでくれた。

私たち夫婦は余市町山田町の家の離れに住んだ。リタおふくろは毎日妻の部屋に来てお喋りをしたり、一緒に犬の散歩に出かけたりしていた。リタおふくろは日本語がぺらぺら。何しろ来日したのが私の生まれる前。私より長く日本語を話しているのだから当然である。リタおふくろが歌子を選んだ理由のひとつは「東京育ちの嫁に日本語を習いたい」と思ったからであった。おかげで歌子は英語を習うことができず、リタおふくろと毎日話すもので、逆に変な日本語を喋るようになったこともあった。

子供が生まれる前まではリタおふくろと私たちは一緒に食事をしていたが、朝食は専らパン。洋食好きの歌子は私との結婚が決まったとき「これで毎朝パンが食べられる」と嬉しく思ったらしい。政孝親父は毎晩遅くまでウイスキーを飲んでいて起床は午前10時、11時。日本茶と和菓子が朝食代わりであった。

結婚して2年後に長男が生まれた。リタおふくろが一度流産して子宝に恵まれず、私が養子となったわけだが、孫の誕生に政孝親父もリタおふくろもとにかく大喜びだった。政孝親父は長男が生まれると工場中を「ばんざい!ばんざい!」と叫んで駆け回り、名前も「わしがつける」と、生まれる前から決めており、得意げに「孝太郎はどうじゃ」と笑った。自分の「孝」がしっかり入っていた。そして「次男は牧次郎、三男は貞造」と決めていたのである。牧次郎の「牧」は私の実父である牧太から、貞造の「貞」は歌子の実父から一文字貰ったものであった。やがて二人目の孫が誕生。女の子だった。政孝親父は「おのぶ、にしよう」と言う。「のぶ」は私の実母の、のぶよからとったのだが、それにしても「おのぶ」は古めかしすぎるので「みのぶ」と名付けたのだった。

政孝親父とリタおふくろは競うように孫たちを可愛がった。リタおふくろは孫たちを風呂にいれ、やがて歩けるようになると一緒に海岸や余市川の鮎場まで散歩していた。それでも英国人ならではの躾の厳しい面もあり「パパ、ママと呼んではいけません。日本語には立派な言葉があるのですからおとうさん、おかあさん、と呼びなさい」と言い聞かせていたものだ。政孝親父は、家の前を車がたくさん通るのを心配して「子供に注意」と書いた看板を何本か作り、道端に立てていた。何もわからない子供がそれを引っこ抜いてチャンバラごっこをやって遊んでいても叱る事はなかった。

その頃、「三級はウイスキーにあらず」と抵抗していた政孝親父が時流に逆らうのをやめ、1950年に三級ウイスキーを発売。1956年には二級の「丸びんニッキー」を発売。それが爆発的に売れて日本中にウイスキーブームが起こったのである。