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第36話

第36話

夢を叶えた幸せな男

ここ数年の健康ブームで、よくポリフェノールという言葉を耳にするようになった。

ポリフェノールは植物が光合成を行うときにできる物質を総称したもので、ほとんどの植物に含有され、その数は数千種類以上あると言われている。書物やテレビ番組でもポリフェノールは多く取り上げられ、高血圧、動脈硬化や動脈硬化を原因とした脳血管障害、心臓病などを予防する働きがあると紹介されている。

ポリフェノールが多く含まれるものといえばチョコレートやココア、日常的に赤ワインを飲むフランス人は脂肪分の摂取が多いにも関わらず、心臓病の死亡率が少ないことから赤ワインもポリフェノールが含まれる酒として注目を浴びた。

実はニッカウヰスキーで発売されているシードルにもポリフェノールが含まれているのである。

そもそもシードルというのはりんごを発酵させてつくられるアルコール飲料で、フランスのノルマンディ地方やブルターニュ地方では、シードルの製造が盛んに行なわれている。まろやかな口あたりなので女性にも人気で、料理酒としても重宝され、フランスでは魚介類のシードル煮などもよく食べられている。

昭和55年頃、カルバドス(りんごのブランデー)について視察をした帰りに、ブルターニュから列車でパリのモンパルナス駅に降りた。付近にはクレープを出すレストランがたくさんあり、夫婦がのんびりと営んでいるガレット(そば粉のクレープ)とシードルの店に立ち寄った。ガレットは鉄板にそば粉を薄く広げ、卵やハムを乗せて巻くというシンプルなものだが、これがシードルとよく合った。

ガレットの発祥地は、フランス北西部のブルターニュ地方といわれている。晴天の日は極めて少なく、土地は酸性度が強く農作物が育ちにくい。そこで栽培されるようになったのがライ麦とサラザン(そば)。サラザンを粉にした料理が考え出され、最良だったのがそば粉のクレープ、ガレットだったのである。

あちらのシードルは加熱殺菌してつくるため、薄い紅茶のような色をしている。そのせいかどうか、グラスではなく陶器のカップに注がれて出てくる。日本で言うところの湯呑みみたいな物だ。私が興味を示していると、その夫婦は「日本でガレットとシードルの店を出すなら、ここの店を閉めて日本へ行ってもいいよ!」と笑った。ここ数年、ちらほらとガレットとシードルの店を見かけるが、あの夫婦は今頃どうしているだろう。まさか日本で店を開いている、ということはないだろうが、ときどき思い出すことがある。

ニッカウヰスキーの弘前工場ではアップルワインやブランデー、りんごジュースの研究開発をする傍ら、シードルを改良して数々の技術開発を行なった。そして完成したのが、水を一滴も加えない、りんご100%のシードルである。一切熱を加えず、低温発酵させるという製法は大変手間がかかるが、おかげでりんごのみずみずしい風味が損なわれずに済む。昭和60年に北海道で販売され、翌年には東日本で、そして62年には全国販売。年間60万ケースを売り上げると、さすがに原料であるりんごの確保が心配になってきた。私はオーストラリアのシードル製造会社に出かけ、社長に原料供給について相談をした。しかし帰ってきたのは意外な答えだった。

「あなたの会社(弘前工場)の設備はうちとは大違いだ。車に例えるなら、あなたの工場ではロールスロイスを、私のところでは大衆車をつくっているほどの違いがある。なぜ、あなたが私どものところにいらっしゃったのか不思議なくらいだ・・・」確かにオーストラリアからりんごを輸入するとなると、手間がかかる上にコストもかさむ。技術的に解決しなければならない問題も多い。彼らの設備はニッカよりずっと大きなものであったが、技術的管理についてはニッカは独自のものを持っていたようである。

ウイスキーづくりばかりでなく、ブランデーやシードルといった酒類をつくるということは、一朝一夕で成し遂げるのは不可能である。ひとつの商品が誕生するまでに幾つかの失敗はつきものであり、試行錯誤も数知れない。だからこそ思い入れや愛着が湧くのであろう。

政孝親父を「ウイスキーづくりの夢を叶えた幸せな男」と呼ぶ人は多いが、私もまた幸せな男に違いない。