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第14話

第14話

新しいウイスキーづくりへの期待と緊張感に身が引き締まる思いがした。

私が余市蒸溜所にいた頃は、よく従業員たちと余市町界隈の店で飲んだものだった。かつてニシン漁で栄えたこともあり、小さな町ながらも料飲店の数は多かった。「白ぼたん」という料亭が「ぼたん」というカウンターバーになった店があったが、そこが蒸溜所の技術屋の溜まり場になっていたのを思い出す。出されるウイスキーは『ハイニッカ』。当時「ハイニッカを店頭に陳列すると、そのパッケージやビンの形が人目を引いてよく売れるのだ」という声が販売店の方からあがったのだが、確かによく目立つビンだった。勿論肝心なのは中身なのだが、せっかく洒落たビンでも味が良くなければニ度と手にとって貰えはしない。品質とビンの美しさ。双方にこだわる姿勢は現在も変わっていないのだ。

そして昭和43年。私は永年勤めた余市蒸溜所から東京へと転勤になった。新設される宮城峡蒸溜所の建設委員長を兼任していたこともあり、多忙を極めた毎日であった。当時は東京、仙台間に新幹線が開通していなかったので、移動は特急電車か飛行機。飛行機といっても小さなプロペラ機で、風が強いときなど蛇行するようにフラフラと飛ぶ。雲の下を飛んでいるので窓から上を見上げると真っ黒い雲が見えてゾッとしたものだ。帰りは夜遅くに仙台を発つ寝台車に乗って東京に戻ることもあった。仙台の繁華街でウイスキーを飲んで、ほろ酔い気分で寝台車に乗って東京へ、という人も多かった。上野駅に朝6時着。一旦家に帰って、ひと風呂浴びて、朝食を摂ってから出勤。そんな日々が続き宮城峡蒸溜所が完成。昭和44年5月10日には竣工式が盛大に行われた。建物のレンガ色が緑に映え、とても美しかったのを今も思い出す。念願だったふたつめの蒸溜所の完成を喜びながらも、同時に新しいウイスキーづくりへの期待と緊張感に身が引き締まる思いがした。この宮城峡蒸溜所の竣工を記念して発売されたのが『オールドニッカ』(特級43度、720㎖ 小売価格1450円)。立体的に印刷されたラベルには余市・宮城峡双方の蒸溜所が描かれていた。

『ブラックニッカ』、『G&G』と新商品が発売され、料飲店への営業まわりも忙しくなった。昭和45年頃にはウイスキーの 水割りという新しい飲み方が定着し、バーなどでのボトルキープが一般的になるとウイスキー消費量はますます伸びていった。私は、業務用酒販店の人と一緒に銀座をまわった。営業のために店に入ると「ここはニッカのウイスキーを置いてくれそうだ」と勘のようなものが働くようになった。当時は、あちこちに赤い看板を掲げた「ニッカバー」があり、この看板がある店は「明朗会計。安心してウイスキーが楽しめる店」ということで大変はやっていたものだ。

ある晩、赤坂の料理屋の仲居さんが「自分で店を出したいので勉強のため銀座をまわってみたい」ということで、一緒にまわることになった。ニッカファンの彼女は酒豪でもあり、政孝親父を交えて飲んだときなど「もう勝手に好きなだけ飲め」と親父を呆れさせるほどの飲みっぷり。銀座5丁目から8丁目まで次々にまわり、途中で会社の同僚にばったり会ったので合流して再び銀座行脚。肝心の仲居さんは途中で「お手洗いへ行く」と言ったまま帰ってしまったらしく、気がつくとニッカ社員だけ。次の日、請求書の確認もあって行った店を思い出そうとしたものの、2軒ほど思い出せなかった。後日、2軒分の請求書が送られてきたのである。その仲居さんは、念願叶って銀座に店を開き、ボトル棚には『G&G』がズラリと並んだ。

「本物の味わいのニッカウイスキーをより多くの人に楽しんでいただきたい」という思いで懸命に営業にまわった頃。ウイスキー業界の情報が入りやすい店に通ったり、独立してお店を開く方のお手伝いのようなこともやってみたり。今はすっかり様変わりした銀座だが、それでも狭い路地や古いネオンは、まだ古き良き銀座の風情を漂わせている。