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本コンテンツは2014年10月に産経ニュースサイト上で、
連載コラムとして紹介されたものです。
『ウイスキー並びに酒精製造法』の著者、ネトルトンに師事を拒絶された政孝はくじけなかった。幸いエルギンの地はモルトウイスキーの蒸溜所が集中するスペイサイドに直結していた。
最初に飛び込んだのが隣のロングモーン駅前にあったロングモーン蒸溜所だった。工場長のグラントは見学の申し入れも、翌週からの無給での実習の願いも快く受け入れてくれた。気をよくした政孝は翌日の午後もさらに一駅先のローゼスを訪れ、グレングラント蒸溜所やグレンスペイ蒸溜所、グレンロセス蒸溜所など5、6カ所の蒸溜所を見学した。
グレングラント蒸溜所が水源としている渓谷には、今も「特別の賓客」をもてなす仕掛けがあり、鍵のかかった小さな物置からモルトウイスキーを取り出し、渓谷から水を汲んで割ってくれた。
水は大麦麦芽を乾燥させる燃料であるピートと呼ばれる草炭の層を抜けてきており、まるでそれ自身がウイスキーであるかのように琥珀色に輝いている。モルトウイスキーとの相性はもちろん抜群で、申し分のないハーモニーだ。
政孝も『ウイスキーと私』に、蒸溜所巡りで歓待され、秘蔵の10年ものや12年もののモルトウイスキーを振る舞われたと書いている。
背景:現在のロングモーン蒸溜所。政孝は無給で1週間ほど研修した
ただ、ローゼスのホテルにはすべて宿泊を断られため、最初に泊まったエルギンのステーションホテル(現・レアックマレイホテル)の屋根裏部屋を安く借りて、そこからロングモーンでの実習に通うことにした。
現在も同じ地に建つホテルを訪ねると、当時、政孝が使っていたと思われる屋根裏部屋を見せてくれた。天窓から明るい光は入るものの、天井は低い。清潔ではあるが簡素なベッドと小机があるだけ。滞在中にホテルで結婚披露宴があり、政孝は当時の日記に「大変な騒ぎで夜分遅くまでダンスをしていました。その楽しい音楽の調べにそって天女の声のような歌を歌っているのが、私一人、悲しい喫煙室の敷石の前に立って色々の事を考えているのとよい対照でした」と記している。
ロングモーン蒸溜所では、粉砕した大麦麦芽に温水を混ぜて糖化液をつくる糖化、イースト菌などの酵母を加えての発酵、蒸溜、樽詰めというウイスキーづくりのほぼ全工程を体験することができた。
「ポットスチル」と呼ばれる独特の形をした蒸溜器をたたいて蒸溜の進み具合を知ることも学び、だれもが嫌がる蒸溜釜の掃除も買って出た。書物でしか勉強できないでいた政孝の探求心が全開になったのだろう。麦芽乾燥塔の炉から床までの距離、発酵液の容量と発酵の温度、酵母の調達先…政孝の質問は途切れることがなかった。
「今までの学問の世界とは全く反対な経験とカンを養う訓練を続けることができた。習ったこと、見たこと、感じたことはどんなことでもその日のうちに、ノートに字と絵で書きとめていった」(『ウイスキーと私』)
政孝がスコットランドで記した摂津酒造への報告書や日記、メモは「竹鶴ノート」と名付けられ、ジャパニーズウイスキーづくりに欠かせない“バイブル”になる。
最愛の妻となり、生涯にわたって政孝を支えたリタとの出会いは柔道がきっかけだった。グラスゴー大学に通う妹のエラから末弟ラムゼイに柔道を教えてほしいと頼まれたとされる。
医師だったリタの父は亡くなっていた。グラスゴー郊外のカーカンテロフ(現・イーストダンバートンシャー地区)に未亡人と3姉妹、弟が暮らしていた。のちに売却され、カーカンテロフの市役所になったほどの豪邸で、政孝は家族のように歓待され、ホームシックも、将来への不安も解消されていったようだ。
当時の倫理観が邪魔をしてか、政孝自身は明らかにしなかったが、グラスゴー大学の受講許可証にはリタの家の住所が記されている。そこに下宿してグラスゴー大や王立工科大に通っていた時期もあったのだろう。
1919年(大正8年)にリタの家で迎えたクリスマスパーティーで、政孝はクリスマスプディングの中の6ペンス銀貨を引き当てた。「お金持ちになれる」。そういう言い伝えだった。
プディングの中にはもう一つ、裁縫に使う指ぬきが仕込まれていて、それを手にしたのはリタだった。「いいお嫁さんになれる」。6ペンス銀貨を手にしたのが男性であれば、彼と結婚するという占いだった。
リタは読書好きでロバート・バーンズやサー・ウォルター・スコット、サッカレー、ディケンズがお気に入りだった。日本からつづみを持参していた政孝とピアノを弾くリタが合奏や合唱をしたこともあった。
エディンバラでのデートもあり、リタと下の妹のルーシーがスコットランド北部のハイランドを旅行した際には途中から政孝も同行した。
ハイランド有数の都市インヴァネスを経由して、ネッシーで有名なネス湖の近くの古城の見学を楽しみ、旅の終わりが近づくころには、互いに結婚を意識するようになっていた。
景勝地として知られるローモンド湖の湖畔。政孝は「私がプロポーズをし、リタがこれを受けた」としか記していない。照れくさいと思ったのかもしれないが、実際はかなり情熱的だったようだ。
『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、スコットランドにとどまっても結婚したいと訴えた政孝に、リタは「わたしたちは…スコットランドに留まるべきではありません。日本へ向かうべきだと思います。マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。その夢は日本で本当のウイスキーを造ることですね。わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と応じたという。きっぱりとした決断だった。
9月も末のローモンド湖は観光客で賑わっていた。向かい側にはハイランドに連なる山々。湖の水は清冽だった。家族の反対などの不安を心の隅に抱えながら、船着き場の石垣の上に仲良く座り、黙って山々を見つめる政孝とリタ。爽やかな風の中に、そんな幻影が見えた。
二人の気持ちは決まったが、折しも王立工科大のウィルソン教授の斡旋によるキャンベルタウンでの実習が迫っていた。リタの家族は妹ルーシーを除いて結婚に反対し、教会で盛大に結婚式を挙げる状況にはなかった。
グラスゴーのカールトン地区登記所での結婚登記。登記官が二人の意志を確認し、立会人が宣誓、二人に続いて登記官が最終的に結婚登録書に署名して政孝とリタの結婚は成立した。立会人にはルーシーとリタの幼なじみがなってくれた。
政孝はこの直前、広島の両親と摂津酒造の阿部にあてて、リタと結婚すると伝える手紙を書いたが、当時は、英国から日本に手紙が届くのに2カ月近くを要した。
日本では国際結婚が極めて珍しかった時代。両親は狼狽した。責任を感じた阿部は広島の実家を訪ねて自ら渡英する考えを伝えた。しかし、両親から結婚を思いとどまるよう説得する手紙が届いたのは政孝とリタがキャンベルタウンでの新婚生活を始めた後、阿部が政孝とリタに会ったのは4カ月にわたった実習が終わった後だった。
新年度が始まったグラスゴー大学は学生や教職員に加え、多くの観光客でにぎわっていた。当時と同じ場所ではないが、政孝が籍を置いた有機化学部の研究棟にも学生たちが出入りしていた。
正門にはアダム・スミスやジェームズ・ワットらの名前がデザインされた鉄製の門扉があり、その隣には「WORLD CHANGERS WELCOME」「WHO WILL YOU BECOME?」と書かれた垂れ幕がかかっている。「世界を変革する者を歓迎する」「君はなにものになろうとするのか?」とでも訳するのだろうか。産業革命でグラスゴーが世界に示した進取の精神を象徴しているように思える。
キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所における政孝の実習は、こうしたグラスゴー精神に則って、自らの留学の成果をまとめあげる実習になった。
ネトルトンらの書物で習得した知識、ロングモーン蒸溜所など多くの蒸溜所での実体験、それをヘーゼルバーン蒸溜所の設備の見学やピーター・イネス工場長の懇切丁寧な説明を通じて体系化していった。
スペイサイドなどでの実習の後、大麦麦芽ではなくトウモロコシなどほかの穀物を原料に連続式蒸溜機でつくるグレーンウイスキー製造の実習はしていた。だが、モルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドしてつくるブレンデッドウイスキーづくりや、モルトウイスキー同士を混合する技術もヘーゼルバーン蒸溜所で学んだ。ブレンダーとして特訓を受けたともいえる。
実習から帰るとリタの笑顔が待っていた。その日のメモを整理する政孝のそばで読書にいそしむ。土屋守著『竹鶴政孝とウイスキー』(東京書籍)によると、リタは後年、「心配などなにもない、とてものんびりした毎日だった」と当時を振り返っていたという。
この実習で完成した竹鶴ノートには、ウイスキーづくりの全工程が自ら描いた図や撮影した写真とともに詳述されているだけではない。摂津酒造が実際にウイスキーを蒸溜する場合に考慮すべき点やウイスキーの貯蔵と樽の調達方法、ウイスキーの価格・税額、さらには経営に直結する労働問題、販売方法などにも言及している。
社員の待遇に触れた部分で、政孝は「退出時間が来たら遠慮なく家に帰り、家庭をもつ者は皆々揃って楽しい夕べを過ごすというようになって欲しいと思います。これは単に人生を有意味に暮らすということのみならず、およそ人として踏むべき道ではありませんでしょうか」と記している。
国教会の教えを守りつつ、人生を楽しむスコットランドの人々の暮らしぶりを日本に持ち込もうと考えただけではなく、父・敬次郎の「酒は造る人の心が移るもんじゃ」という言葉を改めてかみしめていたように思う。
専門外である販売方法にまで踏み込んだ竹鶴ノート。帰国後すぐにでもウイスキーづくりに乗り出すことができる。自らの手でジャパニーズウイスキーをつくりあげる。政孝がそういう自信を抱いていたことを物語っている。
グラスゴーのクイーンストリート駅。スコットランド各都市と結ぶ列車が発着する。夕方とあって乗降客で混み合っていた。政孝やリタもこの駅を何度も利用していた。駅舎のすぐ横には政孝らが結婚登記のあとにささやかな祝杯をあげたノースブリティッシュホテル(現・ミレニアムホテルグラスゴー)があり、駅前のジョージ広場には二人が仰ぎ見たサー・ウォルター・スコットやロバート・バーンズの像が立つ。目の前はグラスゴー市庁舎だ。
これもまたグラスゴー精神の発露なのだろう。広場の角には「PEOPLE MAKE GLASGOW(人々によってグラスゴーはつくられる)」と書かれたのぼりが翻っていた。
アサヒビール・ニッカウヰスキーは竹鶴政孝生誕120年、ニッカ創業80年の記念事業の一環として、キャンペーンに応募して当選した人たちと「竹鶴政孝の夢をたどるスコットランドの旅」を実施した。訪れたのは、エディンバラ、イーストダンバートシャー(カーカンテロフ)、ローモンド湖、フォートウィリアム、ネス湖、インヴァネス、エルギン、ローゼス、スターリング、グラスゴー。引率したアサヒビールのウイスキーアンバサダー・簑輪陽一郎さんに今回の旅の意義や政孝やリタへの思いを聞いた。
みのわ・よういちろう
1977年、ニッカウヰスキーに入社、東京、横浜、仙台、神戸、大阪で主に業務用の営業を担当。2001年のアサヒビールとの営業統合後、アサヒビール神戸支社副支社長、近畿圏統括本部洋酒ワイン部長を歴任した。
現在はマーケティング本部担当部長兼ウイスキーアンバサダーとしてウイスキー文化の普及、ニッカブランドの啓蒙を目的に全国各地でセミナーや講演会を行っている。スコッチ文化研究所認定ウイスキープロフェッショナル
思い出の地で「政孝さん像」を再構築
―政孝さんの「日本で本物のウイスキーをつくる」という夢、そして夢を支えたリタさん。リタさんは政孝さんを「マッサン」と呼んでいたようですが、社員のみなさんはなんと呼んでいましたか。
簑輪 面と向かってはお呼びしませんでしたが、裏では、敬愛の念を込めて「政孝さん」と呼んでいました。後継者の威さんも「威さん」でしたね。
―今回の政孝さんとリタさんの思い出の地をめぐる旅はいかがでしたか。
簑輪 参加したみなさんに政孝さん、リタさんの思いを理解していただいたと思います。ウイスキーに造詣が深くない方にはおもしろくない見学先もあったかと思いますが、日を追うごとに熱心に見学されていた。みなさんそれぞれ感じるものがあったのかと思います。
―ご自身は何度もスコットランドにいらしているそうですが、今回の旅で一番印象に残ったことは。
簑輪 はじめていったところも多く、「あのとき、この場所で、こんなことを考えながら過ごしていたんじゃないか」と勝手に想像しながら、改めて自分の中で「政孝さん像」をつくりなおすこともありました。すごく意義があった旅行でした。
―「この場に政孝さんがいたら」と感じた瞬間もありましたか。
簑輪 いらっしゃったら、「どんなお気持ちでしたか」と聞きたいようなところが、場所場所であって…そんなセンチメンタルな感じですけれども…。とくにエルギンのステーションホテル(現・レアックマレイホテル)ですね。日記の紙の裏側に宿る思い、「こう日記には書かれているけれど、どういう思いでこういう言葉を残されたのか」と考えました。
カーカンテロフも初めて行ったのですが感動的でした。丘の上の公園から、余市の山と似た景色を見たときに、「ああ、なるほどなあ」という気持ちになりました。そんな新鮮な発見がたくさんありました。
今回は行けなかったのですが、政孝さんとリタさんが新婚時代を過ごしたキャンベルタウンの風景は余市の浜や岬とうり二つなんです。余市に蒸溜所を建てたいわれについてはいろいろ語られているが、キャンベルタウンやカーカンテロフの景色を見ると、最終的に政孝さんの背中を押したのは、ああいった景色だと思います。
親の反対を押し切ってまで遠くの国についてきてくれたリタさんへの「せめて生まれ故郷と同じような景色の中で暮らしてほしい」という思いやりが、余市選定の大きなファクター(要因)だった感じが改めてします。
ウイスキー製造上の適性はもちろんですが、初めて余市の浜に立ったときの政孝さんの気持ちを想像すると、そう感じます。これこそ、ご本人に聞いてみたいことですが…。
―フォートウィリアムにあるベンネヴィス蒸溜所の社長・工場長、コリン・ロスさんは「一番会いたい人」の一人に政孝さんをあげました。それだけ、政孝さんはスコットランドでウイスキー製造技術の習得に情熱を燃やしたのだと思いますが。
簑輪 政孝さんは大阪高工で応用化学を学びました。まだ、パスツールがアルコール発酵の原理を世に発表してから20年くらいしか経っていなかったと思います。そこで、科学的アプローチによる酒造りに初めて触れたのが、洋酒の世界にひかれたひとつの要因だったと思います。スコットランドに来てグラスゴー大学などに行ったが、日本での洋酒産業の可能性や、阿部喜兵衛さんをはじめ関西で洋酒づくりに携わったみなさんが神戸にまで見送りに来て「しっかり勉強して来いよ」と励ましてくれた、そういう期待の大きさ…それをひしひしと感じていた足かけ3年間だったと思います。
自分の夢をかなえたいということと、周りの期待に応えたいという気持ちが、3年間を支えた。エルギンの近くの浜でくじけそうな気持ちを泣きながら吐露したということもあった。浜を見ながら「政孝さんも悩みながらここにいたんだなあ」と思うと、私もじわっと来るものがありましたね。
ただ、政孝さんの酒造りの基本は、子供のころ竹原の酒蔵の中でおやじさんから教わった「酒は一度死んだ米をまた生き返らせてつくるんじゃ。造る人の心が移るもんじゃ」という言葉にあると思うのです。そういう中で、「お神酒」と言われる世界…神様的なものや自然への畏怖みたいなものと、学校で勉強した科学的アプローチからの酒造り…そういう相反するものを自分の中に取り込んだ。政孝さん自身も悩んだようだが、スコットランドでウィルソン教授やイネス工場長らと出会い、彼らとの交流を通じて自分のウイスキーづくりの根本的な考え方を固めていった。だから、それは日本に帰っても崩したくない信念になったのだと思います。
愛し合った二人がつくったジャパニーズウイスキー
―政孝さんは一方で、「ウイスキーは飲みたいように飲めばいい」とも言っていますね。
簑輪 その辺が不思議でおもしろいところです。政孝さんはスタンダードな人です。竹鶴ノートにも「退出時間が来たら遠慮なく家に帰り、家庭をもつ者は皆々揃って楽しい夕べを過ごすというようになって欲しい」と書いているが、スタンダードな生き方を日本に持ち帰ったような人なんです。
セミナーで話すときには、政孝さんを神格化しないように気をつけています。身近にいるおじさんが一念発起してスコットランドに行ってみんなの期待に応えたいと努力した―ということです。大正時代の、明治生まれの男ががんばって、奥さんとの愛情物語の中でウイスキーづくりの人生を過ごしたと思って見てもらえたらと思います。
よく、「ニッカのウイスキーはなぜおいしいのか」と聞かれますが、そういうときは「愛し合った二人がつくった酒ですから」とお答えしています。そんな理解でニッカを飲んでもらいたいですね。
―ウイスキーアンバサダーとして、どういうふうにウイスキーを楽しんでほしいと思いますか。
簑輪 政孝さんも「ウイスキー会社の社員だからといって、ウイスキーだけ飲んでいれば言い訳じゃない」とおっしゃっていたと先輩から聞いています。「日本酒が合うと思えば日本酒を飲め」と…。
ウイスキーは何年も寝かせなきゃならない、時間が詰まった酒です。それが魅力だと思います。製造現場に行くと、自分が生きている間に飲むことがないかもしれない酒をつくっている。彼らは「未来を信じる酒だ」と言う。逆に、10年も20年も前に先輩が仕込んだ原酒を扱っているブレンダーは「過去に感謝する酒だ」と言うんです。いろんな人間が自分なりの時間軸で楽しむのがウイスキーです。
飲み方についても、政孝さんは「好きなように飲んでほしい」と言っていた。バーで水割りを頼んだら軽く見られてしまうなどということはありません。
2001年に「シングルカスク余市10年」がウイスキーマガジン社主催の「ベスト・オブ・ベスト」で最高点を獲得したときに、威さんが当時の小泉純一郎首相にその酒をお持ちしたのですが、そのとき、小泉総理に「どうやって飲んだらおいしいですか」と聞かれ、威さんは「総理、ちびちびやってください」と申し上げたそうです。
酒ですから、楽しく飲んでほしいですね。
(第2章終了)