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酒蔵を遊び場に
第2回
酒蔵を遊び場に
竹鶴政孝は明治二十七(一八九四)年六月二十日、塩田で栄えた広島県竹原町(現竹原市)に生まれた。呉と尾道の真ん中あたり、瀬戸内海に面し、豊かな自然に囲まれた美しい町だ。
竹鶴家は頼家、吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつ。享保十八(一七三三)年から酒造業も手がけていた。
竹鶴という珍しい名前は、ある時、裏の竹林に鶴が飛来し巣を作ったのに由縁する。「古来、松に鶴と聞くも、竹に鶴とは瑞兆(ずいちょう)なり」と「小笹屋竹鶴」を屋号にし、明治になり、そのまま竹鶴が姓になった。
政孝の家は祖母の代に分家し、「浜の竹鶴家」と呼ばれ製塩業を営んでいた。明治十二年、本家の主人夫妻が、長男誕生直後に急逝。政孝の両親、敬次郎とチョウが後見人として本家の面倒をみることになる。そのため政孝は本家の産室で生まれ、本家で育った。三男の政孝は好奇心旺盛、相当な暴れんぼうだった。後に自ら「大人になっても、少年時代の生傷があちこちに残っている」と語っているほどだ。中でも極めつけは八歳のときの、鼻の大けがだ。二階から階段を転がり落ちて顔を強打、七針縫った。
自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載『私の履歴書』に加筆、ニッカウヰスキー発行)で政孝は、「このけがで大きい鼻がさらに大きくなった。ところが鼻がよく通るというのか、人が感じない“におい”を感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一倍きき分けられるようになったのも、このけがのあとからであるから、人生というのは不思議なものである」と振り返っている。
けがで鼻がよくなるのも不思議だが、政孝にとってまさに人生を左右する、“けがの功名”だった。
政孝が育った本家の竹鶴酒造の建物は約二百三十年前のものだ。「安芸の小京都」と呼ばれる竹原の町並み保存地区の一角にあり、今も変わらぬ姿で江戸時代をしのばせる。
現在の竹鶴酒造社長の竹鶴寿夫は政孝のいとこの息子にあたる。
寿夫は「政孝さんは、酒蔵を遊び場に育ったので自然と酒に興味を持ったのでしょうね。私の祖父を兄のように慕っていましたから、もしものときには、酒造業を継がなくては、と考えたのだと思います」と話す。
中学は八キロ離れた忠海中学へ通った。往復四時間はきつく、三年生のとき寮に入る。寮での上下関係は厳しかった。下級生に、池田勇人がいた。池田は政孝の布団の上げ下ろし係だった。
後に首相になった池田は、国際的なパーティーでも国産ウイスキーを使うように指示した。
昭和三十八年の総選挙投票日にも選挙本部を抜け出し、政孝のパーティーに駆けつけている。
友情は池田が亡くなるまで続いた。自伝で政孝は「実に義理堅い男だった」としのんでいる。
酒作りに興味を持った政孝は大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造学科に進学する。その講義を通し洋酒の世界に興味を持つようになる。
卒業を間近にした大正五年正月。実家のコタツで寝そべっていた政孝に「これからの長い人生、この竹原での酒づくりで終わってしまうのか」という感傷がかすめた。
同級生のほとんどが造り酒屋の息子だった。
四月に卒業、十二月に徴兵検査を受け一年志願で兵隊にいき、その後、家業を継ぐという同じような人生が待っていた。
学校で洋酒に興味を持ち始めていた政孝は、ひかれたレールの上をただ走る人生を受け入れることはできなかった。
当時、洋酒メーカーのトップだった大阪の摂津酒造に、学校の一期生の名前を見つけると、直接訪ねていった。
「徴兵検査後、家業を継がなくてはならないのですが、洋酒作りに興味があります。それまでだけでも働かせてほしい」
話を聞いた阿部喜兵衛社長は「明日から出社しなさい」と答えた。若者らしい率直さを阿部は気に入った。
卒業を待たず働き始めた政孝は、「新人の学校出に何ができる」と、古株の職人にけむたがられながらも、会社に泊まりこんで勉強した。妥協を知らず徹底的にこだわる性格。 その熱心な働きぶりを、阿部は高く評価した。
摂津酒造は明治四十四年に模造ウイスキーを作り始め、当時は他社製品の「赤玉ポートワイン」「ヘルメス・ウイスキー」などの製造を請け負っていた。
その夏、ぶどう酒のビンが店頭で爆発する事件が頻発。アルコールの殺菌が不十分なため暑さで酵母作用が起きたのだ。ところが、摂津酒造で政孝が手がけた赤玉ポートワインは丁寧に殺菌していたため、一本も割れなかった。「新しく来た若いのは腕がいい」と、関係者たちの評判になっていった。
十二月、徴兵検査は予定通りやってきた。学生時代から柔道で鍛えた体は頑丈そのものだった。
検査を終え、“甲種”の印を持ち上げかけた検査官は、ふと書類に目をとめた。
「アルコール製造技師?アルコールは火薬をつくるのに必要だ。お国のために仕事に励むように」と、“乙種”の印を押した。軍需産業にかかわると判断したのだ。
政孝は会社に「兵隊に行かなくてよくなったので、あと一年働かせてほしい」と申し出た。
阿部に異存はなかった。
日本最初のウイスキーは嘉永六(一八五三)年、アメリカのペリー総督がもたらしたとされる。明治四年、輸入が始まるが当時はまだ国産ウイスキーはつくられておらず、ウイスキーといえばアルコールを原料にした模造品だった。
阿部は「日本で初めて本格的なウイスキーを作りたい」と考えていた。
年があけるとすぐ阿部は、政孝にスコットランド留学を提案する。
夢を若い政孝に託したのだ。
家業をついでくれるものと期待していた竹原の両親の落胆は大きかった。
阿部は竹原にまで足を運び両親を説得。政孝は、大正七(一九一八)年六月、神戸港を出発した。
見送りには阿部社長をはじめ摂津酒造の社員一同、竹原から両親もそろってやってきた。
その中には寿屋の鳥井信治郎(後のサントリー創業者)、日本製瓶の山本為三郎(後のアサヒビール初代社長)の姿もあった。
=敬称略(田窪桜子)