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第94話
第94話
子供の頃の記憶
今年の夏は、まさに「酷暑」と言われるほど暑さが厳しい。私が生まれたのは広島県福山市。瀬戸内生まれのおかげかどうか、比較的暑いのは平気な方である。しかし、さすがに今年のお盆はどこへも出かけず、家にこもっていた。犬を飼っている知り合いが「散歩をさせていたら犬が途中で座り込んでしまった」と言っていた。また、「歩いていたらいきなり鳩が落ちてきた」と言う人もいて、今年の夏は尋常ではない暑さである。
子供の頃は、夏ともなれば大喜びで海水浴に出かけたものだ。福山市の沼隈半島の先端にある港・鞆の浦(とものうら)は、幕末に起こった『いろは丸事件』とゆかりの深い場所である。海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が瀬戸内海の六島の沖で衝突し、近くの鞆港に曳航しようとしたが、いろは丸は沈没。暗殺の危機もあった坂本龍馬らは、廻船問屋桝屋清右衛門宅の2階の隠し部屋に寝泊りしながら賠償交渉に臨んだという。
現在、大河ドラマで話題の坂本竜馬であるが、私が子供の頃、歴史の勉強に竜馬が出てきた記憶がない。時代のせいかどうなのか、私は幕末に大活躍したという人物の詳しいエピソードをほとんど知らないのである。後になって書物やテレビ、人から聞いた話などで「そんな人物であったのか」という具合であった。
幼い頃の記憶といえば、リタおふくろが日本に来て2年が過ぎた1924年、私は母親のお腹の中にいた。胎児はある程度発育すると外の音が聞こえるようになるというが、私は政孝親父のあの大きな声を聞いていたのだろうか。だとしたら、そのとき、政孝親父とリタおふくろは、私が養子になるなど夢にも思っていなかったに違いない。人の運命とはどうなるか分からないものである。
そういえば、小学校に上がる前くらいだっただろうか。兄たちに「お前は妙なことを覚えているなぁ」と言われたことがあった。私の生家には階段を上ると引き戸があり、そこからさらに上へ行けるようになっている場所があった。
そのことを覚えていたので兄たちに話したのだが、その家にいたのは私が赤ん坊の頃で、間もなく引っ越してしまった。ということは、赤ん坊の頃の記憶があったということになる。不思議な感じがしないわけではないが、聞くところによると3歳くらいまでは赤ん坊のときの記憶が残っているらしく、成長すると共に忘れられていくのだそうだ。
少年時代、忘れられない出来事のひとつが戦争である。8月15日の終戦記念日がやって来るたびに当時の様子が思い出される。私が学徒勤労動員で、千葉県内で燃料用アルコールをつくっていたときのこと、蒸溜塔の真上を何機ものB-29が飛んで行くのを見た。蒸溜塔は建物の5階くらいの高さがあったので、いつも屋根へ上がって眺めていたものである。焼夷弾など落とされたらひとたまりもなかったに違いないが、当時は「どうにでもなれ」という気持ちもあり、死への恐怖はなかった。極限の状態になると感覚が麻痺してしまうのだろうか。
B-29が飛んで行くと習志野の高射砲隊が迎撃する。すると、命中しなかった弾がそのまま落ちてきて地面にたくさん穴が開くことがあった。大変危険なので大慌てで避難するのだが、降りる手段は粗末な木の梯子のみ。ひとつ間違えたら弾に当たらなくても落ちて死んでしまうかもしれなかった。頭上を勢いよく飛んでいくB-29の機影は、今でも強く記憶に刻まれている。
ニッカウヰスキーが創業されたのは1934年(昭和9年)、東京の日本橋に事務所があったのだが、そこも空襲で焼かれてしまっていた。なぜ、焼け落ちた街で事務所のあった場所が分かったのか。ウイスキーの割れた瓶が転がっていたからである。夜に空襲があったため事務所には誰もいなかったが、東京大空襲ではたくさんの方が亡くなられた。戦災犠牲者の方々のご冥福を祈ると共に、改めて平和の大切さを痛感せずにはいられない。