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第84話
第84話
『鶴』
ニッカのウイスキーに『鶴』という銘柄がある。陶器の白いボトルと透明なボトルがあるが、古くからのニッカファンの方は陶器のほうを好まれる方が多いようである。鶴のスリムボトルが発売されたのは1992年。従来の陶器のボトルが最大直径141㎜に対してスリムボトルは98㎜と、文字通りスリムな体型である。これは店内の陳列スペースを広げて一段と華やかさを演出することが狙いであった。
陶器ボトルの趣きを残すためにラベルは純白に、スリムボトルには竹鶴家に伝わる「竹林に遊ぶ鶴」の屏風絵をモチーフにしたレリーフが施された。ところで皆様はラベルをご覧になって「何か変だな」と思われたことはないだろうか。一般的な鶴という漢字の旁(つくり)とラベルの字が異なるのである。
ある時、ニッカの入社試験の答案にラベルに書かれた漢字が記入されていたことがあり「正解か否か」を尋ねる旨の問い合わせが私のところにあった。もちろんラベルの漢字も間違いではない。この字を記入した方はニッカの製品をご覧になって鶴の字を書いたのだろうか?ご本人から直接聞いたことがないので真相はわからないが、日本語というのはややこしいと思うと同時に、このように複雑な言語を自由に操れる日本人は大変素晴らしい民族だと誇らしい気持ちである。
鶴という字の右下に「威」の落款が捺されているので、じっくりラベルをご覧になった方からは「竹鶴さんが書かれたのですね」と言われることがある。落款は丹精込めて書いたという想いを表したり、「確かに自分が筆をとった」という証明になる他、作品を引き立たせる名脇役でもある。落款はある方から贈られた雅印を捺したもので、こんないきさつがあった。
1991年、スリムボトルが発売される1年前、その方から「竹鶴さんの雅印を彫らせて欲しい」というお話があった。聞けば天台宗の僧である円空を習って12万点の雅印を彫るという誓願を立てていらっしゃるのだという(円空は生涯に12体の仏像を彫ったといわれている)。完成した雅印には「ご健康とご多幸を念じ、一本一本彫りました」という手紙が添えられており、その方のさまざまな想いが伝わってくるようだった。随分とご無沙汰しているが、お陰様でウイスキーが飲める健康体である。もう20年近く経っているが、もしお会いできることがあったら改めて御礼を申し上げたい。
書、といえば私が所有している硯に端渓がある。大きなものでずっしりと重たく、実用的というよりは観賞用といった風情である。これは書を趣味にしている知人から聞いた話だが、硯に彫刻されているのは中国の東晋の時代に、会稽(かいけい)の長官であった王義之の名筆、蘭亭序(らんていじょ)の一節を絵にしたもので、蘭亭硯と呼ばれているそうだ。
永和9年(353年)3月3日、会稽郡山陰県、現在の浙江(せっこう)省、紹興市の蘭亭で名士一族が開いた曲水の宴があるが、これをまとめた詩集の序文が蘭亭序。王義之はたいそう酔って書いたので、酔いが覚めてから幾度も清書を試みたものの、草稿以上のものはできなかったという言い伝えがあるらしい。
この回想録も随分長く続いているが、先日ブログで「ニッカウヰスキーと私」をお知りになったという方から大変ご丁寧な感想文が届いた。ニッカへの想いやウイスキーに関するエピソードなど、楽しく拝読させていただき、改めてニッカを愛してくださる方の存在を大変ありがたく感じたひとときであった。毎月回想録の執筆が近づくと「次は何を書いたらよいものか」と模索することがあるが、少しでも皆様が興味を持ってくださる内容になれば幸いである。