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第22話
第22話
ニッカウヰスキーが誕生して70年、様々な物語があった
ニッカウヰスキーが誕生して、もう70年が過ぎた。一人の人間が産声を上げてから人生がたっぷりと熟成する70歳になるまでの間に波乱や物語があるように、ニッカウヰスキーにも様々な物語があった。この歩みを、ウイスキーそのものの歴史から多くの皆様に知っていただくことは出来ないものだろうか。そんな思いから誕生したのが余市蒸溜所にあるウイスキー博物館である。
博物館はウイスキーの貯蔵庫を改装したもので、ウイスキー館とニッカ館の二棟からなり、ウイスキー館にはウイスキーの歴史が、ニッカ館にはニッカウヰスキーの生い立ちや政孝親父、リタおふくろの遺品や、第1号の「ニッカウヰスキー」、原酒の熟成を待つ間に資金繰りのためにつくっていたリンゴジュース、思い出の写真などが展示されている。
ウイスキー館にあるスピリッツセイフ(※下の写真参照)はベン・ネヴィスの社長であるロス氏にお願いして、既に閉鎖してしまった蒸溜所にあるものを送っていただいた。そしてコニャックのアランビック(コニャックの蒸溜器)はティフォン蒸溜所のものを譲り受けたのだが、これには面白いエピソードがある。
ティフォン蒸溜所へ行ったとき、随分と古いアランビックを見つけた私は、社長に「また随分と古いものですね。まだ使っていらっしゃるのですか?」と尋ねた。すると社長がひと言「欲しいか?」と言う。冗談だと思い「欲しい」と答えたところ「じゃあ、持って行け」ということになり、17世紀もののアランビックは日本までの長い船旅に出ることになったのである。解体して送られてきたのだが、ご丁寧に土台の煉瓦まで一緒に入っていた。
コニャック滞在中は、蒸溜所が所有するシャトーに泊まらせていただいた。すると社長が「貴方が泊まる部屋はね、出るから気をつけておくれよ」と妙なことを言った。「出ると仰いますと?」「幽霊が出るんだよ」私が笑いながら「美女の幽霊なら大歓迎なのだが」と言い返すと、社長は大声で笑った。朝食にはリンゴゼリーが出た。ジャムではなくゼリーが出たのが珍しく、ゼリーの話をしたところ「ゼリーを作る鍋をやろう」と言う。ここの社長は実に素朴で気前の良い人物なのだが、油断するとすぐに「持って行け」が出るのでうっかりしたことを言えない。結局、私はダンボールに詰めた鍋と一緒に帰国することになったのである。
政孝親父が渡英したときに使ったパスポートや記念写真の中に古いノートがある。これがいわゆる竹鶴ノートと呼ばれるもので、スコットランドの蒸溜所で学んだウイスキーづくりについて、イラスト入りで克明に記されている。実は、このノートはしばらくの間、我々の手元から離れていたのである。政孝親父がスコットランドから帰国したとき、ノートを、当時務めていた摂津酒造の上司である岩井氏へ報告書代わりに提出。岩井氏はノートを保管するようにと、彼の親戚である玉利六雄氏に預けたのである。
やがて玉利氏からノートの存在を知らされ、当然「ぜひ見せて欲しい」ということになった。ノートは大切に保管されており、「これは我が家の家宝だから…」と仰るので、コピーをしてからお返しする、ということで一旦ノートを預かった。蒸溜器などの設備のイラストや製造過程がびっしりと記され、写真も貼ってある。コピーを終えたのでノートをお返ししようとしたところ、玉利氏は「このノートは、やはりニッカウヰスキーさんにあってこそ価値があるものです。私にはコピーした方をください」とコピーの方をお受け取りになったのである。
感激した私は、彼を余市蒸溜所にご案内した。たいそう喜んでくださり、私もまた喜ばしい気持ちであった。政孝親父が記したノートを家宝と呼び、また、ニッカウヰスキーに親愛の情を表わしてくださったことにどれほど感謝したことだろう。
これからもウイスキーをつくり続け、70年が80年、90年、100年になったとき。ウイスキー博物館も様変わりするであろう。しかしウイスキーは変わらない。なぜなら大自然と人の技、そして歳月がつくりあげるものなのだから。