ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝 Founder of Nikka Whisky
Masataka Taketsuru

ニッカウヰスキーの創業者であり、
後に“日本のウイスキーの父”と呼ばれる竹鶴政孝(1894-1979)。
「日本人に本物のウイスキーを飲んでほしい」
ウイスキーづくりに人生をかけた男の、夢と情熱の軌跡。

I. 政孝誕生 ~ 旅立ち

志

「 酒づくりのきびしさは、 父を通して私の血や肉になった 」

前列中央が竹鶴政孝

竹鶴政孝は1894年、広島県竹原町(現竹原市)の造り酒屋の三男として誕生。幼少期は酒蔵を遊び場とし、日本酒づくりの現場に触れながら育ちました。彼は後年、「酒づくりのきびしさは、父を通して私の血や肉になった」と述懐しています。

旧制中学時代は柔道部の主将を務め、大阪工高(現・大阪大学)醸造科へ進学。日本酒より洋酒に強い興味を抱いた政孝は、1916年、卒業を前に摂津酒造に入社します。1918年、摂津酒造は純国産ウイスキーの製造を計画。実績を重ね、優秀な技師として評価を高めていた政孝は社命を受け、単身、スコットランドへと渡りました。

II. スコットランド留学 ~ リタとの出会い

学

「 毎日が苦しい、 しかし頑張り耐えねばならぬ 」

1918年12月、政孝はグラスゴー大学とロイヤル工科大学(現・ストラスクライド大学)で聴講生となり、化学の授業の傍ら、大学にあるウイスキー製造に関する文献や専門書を読み込みます。しかし、机上の知識習得に飽き足らず、1919年4月、スペイサイドの蒸溜所を訪れることを決意。何のつてもなく蒸溜所の門を叩き、その熱意に応えてくれたのがロングモーン蒸溜所でした。
ロングモーン蒸溜所ではモルトウイスキー製造にかかわる一連の作業を実習。ここでの経験が後につながる礎となります。同年7月にはエジンバラ近郊の街・ボネスにあった工場にて、カフェ式連続式蒸溜機によるグレーンウイスキーの製造見学と体験を重ねました。

愛

「 大きな、きれいな目で私を見つめていた 女性がいた。それがリタだった」

「 大きな、きれいな目で 私を見つめていた女性がいた。 それがリタだった」

1919年の初夏、政孝はグラスゴー大学で知り合った女子学生に、弟に柔道を教えてほしいと家に招かれます。そこで出会ったのが、長女のリタ。文学や音楽などの趣味を通してふたりは魅かれ合い、1920年1月、周囲の反対を押し切って結婚。政孝は結婚に際してスコットランドに留まる覚悟もありましたが、日本行きを促したのはリタでした。

ほどなくしてふたりはキャンベルタウンへ向かいます。政孝はヘーゼルバーン蒸溜所で、モルトウイスキーの製造法に加えてブレンド技術を学び、習得。約半年の研究・研修を経て「竹鶴ノート」をまとめ上げ、11月にリタを伴い帰国しました。

Ⅲ. 摂津酒造を退職 ~ 寿屋時代

進

「 私は技術屋として ウイスキーを日本でつくる 」

摂津酒造の技師長として復職した政孝。しかし、摂津酒造は第一次大戦後の不況の影響を受け、本格ウイスキー製造計画を断念。政孝は摂津酒造を退職し化学教師として、リタは英語教師として生計を立てます。そして1923年6月、ウイスキー蒸溜所建設を推進する株式会社寿屋(現サントリーホールディングス株式会社)に迎えられ入社。寿屋社長の鳥井信治郎は政孝がスコットランドへ向かう船を見送った一人でした。

当初、政孝は北海道への建設を提案しますが、鳥井信治郎の希望により大阪の山崎に決定。政孝はスコットランドで得た経験と知識をもとに現場の工場長として蒸溜所建設にあたり、1924年11月、日本初の本格モルトウイスキー蒸溜所が完成しました。やがて1934年3月、政孝は契約満了をもって寿屋を退社。自らが求めるウイスキーづくりのために北海道へと向かいます。

Ⅳ. 余市蒸溜所を設立 ~ 念願の第一号ウイスキー発売
Ⅳ. 余市蒸溜所を設立 ~ 念願の第一号 ウイスキー発売

成

「 独立後、初めて世に問う作品として、 会心とはいえないが、私にはやはり感激であった 」

「 独立後、初めて世に問う 作品として、会心とはいえないが、 私にはやはり感激であった 」

政孝が選んだ地、北海道余市は、ウイスキーをゆっくりと熟成させる冷涼な気候と澄んだ空気、豊かな水、朝夕の靄(もや)による適度な湿度など、スコットランドのハイランド地方に似た理想的な条件を備えていました。1934年7月、ニッカウヰスキーの前身である「大日本果汁株式会社」創立。同年10月に北海道工場(余市蒸溜所)が竣工しました。

1936年には、政孝が設計した初の国産ポットスチルを設置。ウイスキーづくりを進めながら地元産のりんごを原料としたジュースなどを製造・販売しますが、商品は売れず、政孝自身も認める“苦難の時代”が続きます。そして、ウイスキーの熟成を待ち続け、1940年6月、ついに待望の第一号ウイスキーが完成。「大日本果汁」の「日」「果」から『ニッカウヰスキー』と名付けられ発売されました。

Ⅴ. カフェ式連続式蒸溜機の導入 ~ 宮城峡蒸溜所を設立
Ⅴ. カフェ式連続式 蒸溜機の導入 ~ 宮城峡蒸溜所を 設立

実

「 私は、ウイスキーに生きた男としての幸せを 今さらのようにかみしめている 」

「 私は、ウイスキーに生きた 男としての幸せを今さらのように かみしめている 」

数多くの蒸溜所があるスコットランドでは、モルトウイスキーは個性が強い北のハイランドタイプとやわらかく穏やかな南のローランドタイプに大別。さらに、複数の蒸溜所のモルトとグレーンウイスキーをブレンドし、ブレンデッドウイスキーを製造していました。

政孝の夢は、自らが学んだスコットランドのように別々の蒸溜所で個性の違うモルト原酒を生み出し、さらに本場と同品質のグレーンウイスキーを日本国内で生産するというものでした。

1962~63年頃、朝日麦酒(現・アサヒビール)の支援を受けた政孝は養子である竹鶴威とともにスコットランドへ行き、カフェ式連続式蒸溜機を導入。1964年11月に西宮工場で操業を始め、1965年9月、カフェグレーンをブレンドした日本で初めてのウイスキーを発売します。

さらに、1969年5月、政孝の命により、威たちが調査を重ねて見出した宮城県の森の中に宮城峡蒸溜所を設立。余市とは異なる個性のモルトウイスキーをつくり始めます。ハイランドタイプの余市モルト、ローランドタイプの宮城峡モルト、そしてカフェグレーン。それらをブレンドして、日本になかったウイスキーを生み出す。竹鶴政孝の夢の結実でした。

Ⅵ. 次代がつなぐ夢と情熱
Ⅵ. 次代がつなぐ 夢と情熱

継

「 よいウイスキーづくりに トリックはない 」

政孝の後を継いだ第2代マスターブレンダーの竹鶴威、さらにその後に続いたブレンダーたち、そして仕込・蒸溜・樽づくりなどあらゆる現場の職人たち。ニッカのウイスキー製造に携わるすべてのスタッフは、政孝が目指したウイスキーの品質にこだわり、お客様が求める新たなウイスキーづくりに挑戦し続けてきました。その結果、ニッカのウイスキーは政孝が学んだスコットランドをはじめ、世界で高い評価を受けるに至りました。

政孝いわく「よいウイスキーづくりにトリックはない。自然を尊重する素直な気持ちがすべての土台だ」。豊かな自然に恵まれ、政孝の夢を叶えたふたつの蒸溜所では、今日も未来へ向けて、ウイスキーの原酒が静かに熟成の時を重ねています。

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