23時。オン・ザ・ロックをつくり、ダイニングの椅子に座る。息子はもう寝ているし、朝が早い夫も先に休んでいる。
テーブルには一冊の単行本。買ってきたばかりの、新人作家のデビュー作だ。本が好きな私は、時々気になる新しい作家の小説を選んで読んでいる。
電子書籍も手軽でいいけれど、紙の手触りを感じながらウイスキーを片手に読書する時間は、やっぱり特別だ。そもそも最近は、実体のある本に出会える場所がめっきり減った。駅前の書店は閉店してしまったし、近所で本を売っているのはコンビニの片隅ぐらい。リアルの書店には、思いもよらない偶然の出会いがあふれているのに。
この新人作家の本だって、ある出会いがなければ手に取ることはなかったかもしれない。私はゆっくりと表紙を開いた。
15年ほど前、私は転勤で東京を離れ、ある地方都市に引っ越した。縁もゆかりもない初めての町で、赴任先の事業所には年上の人ばかり。プライベートな付き合いをするには、少々ハードルが高かった。
仕事が終わると、電車で小さなアパートに帰る。当時はまだ、書店が駅前に1軒ぐらい
はあった時代だ。アパートの最寄駅の前にも書店があり、そこに寄って帰るのが日課のようになった。簡単な夕食を作って食べて、好きな本を読む。ひとりの時間を過ごすのに、読書はうってつけだった。
雑誌から文庫や新書、学習参考書まで一通り揃っているその書店はいつもサラリーマンや学生で混んでいたが、その中でも頻繁に来る高校生ぐらいの少年がいるのに気づいた。ボサボサ頭に半袖のワイシャツの制服姿で、竹刀の袋を肩にかけ、長い時間立ち読みをしている。最近の若い子はどんな本を読むのかな。気になってチラチラ見ていると、誰もが知っているような古典文学から歴史小説や推理小説、自然科学や哲学のちょっとマニアックな新書、新進作家の小説。コミックスのコーナーにずっといる時もあった。なるほど、ノンジャンルの活字オタクだな。自分と同類だと思うと、親近感が湧いた。
ある日私は、平積みされた新刊本を熱心に立ち読みしているその少年に、声をかけてみた。
「それ、面白い?」
少年は驚いたように顔を上げた。伸びた前髪の下から覗く目に、子供っぽさが残っている。まばらな髭が昭和のマンガの泥棒みたい
に口の周りに広がっていて、微笑ましい。
「うーん、まあまあ」
そうか、私も読んでみようかな。君、よくここにいるけど図書館には行かないの?と何の気なしに尋ねると、少年は
「図書室は、色んなヤツいるから」
とボソッと答えた。
「わかるわかる、私も君ぐらいの時は何を読んでいるのか、人に知られたくなかったもん。特に同じクラスのカッコいい男子には知られたくなくて、いつも本にカバーをかけてたよ」
きょとんとしている少年から微妙な空気を感じて、私は続けた。
「今はもう、ぜーんぜん平気。でも、この間電車の中で読んでた本に感動してぼろぼろ泣いて鼻水出ちゃって、さすがに恥ずかしかったけどね」
少年は目を丸くしてへえ、と小さく言った。小さな子どもみたいな表情だった。
それから私たちは書店で会うと、おしゃべりするようになった。本好きにとって書店の棚を巡るのは、ちょっとした旅みたいなものだ。あの作家が好きだとか、この本読み始めたけどつまんなくてやめたとか、この著者のあの本はこの本よりいいとか、同じ題材でも作家AとBはとらえ方が違って面白いとか。私が勝手にしゃべっていると、少年(ワタルくんと言った)はふーん、そうなんだ、とか相槌を打ちながら、時々この作家は他には何が面白いんですか?などと聞いてくれる。旅の道連れには、いい相手だった。
やがて、ワタルくんがこの書店に通う理由がわかってきた。1ヶ月ほど前に先輩とケンカして剣道部をやめたのだが、やめたことをまだ親には言えないでいるらしい。帰りが早いと怪しまれるため、使いもしない竹刀を持ち、わざわざ学校や自宅から少し離れたこの書店で時間を潰す。そして、部活が終わる頃に合わせて家に帰るというわけだ。
「オヤジが、始めたことは続けろって」
ワケわかんない、とワタルくんはスポーツ書の棚の前で呟いた。
「言いたくないだろうけど、正直に話してみれば?ちゃんと話せば、お父さんだってきっとわかってくれるよ」
私はそんな風に、ありがちな言葉を返した。
小説はまだ第1章の途中。オン・ザ・ロックが減るペースのほうが、読み進めるペースより早い。主人公がある女性と出会うきっかけとなった出来事の描写が延々と続き、私は活字を追いながら半分上の空でいる。
ワタルくんに対して私は年の離れたお姉さん気分で(いや、向こうにしてみればオバさんかも)、彼をすっかり子ども扱いしていた。思春期は大人の入り口だけど、まだ十分子どもなのだから。そして子どもは時々、大人をハッとさせるようなことをする。ワタルくんもそうだった。
ある日、ワタルくんは書店で会うとそわそわした様子で
「ちょっと見て欲しいものがあるんですけど」
と言う。もちろんいいよ、と言って私はワタルくんと書店の外へ出た。
西日が暑い初秋の夕方、商店街を抜けて近くの公園へ向かった。ワタルくんは私と一緒に歩くのが恥ずかしいようで、少し離れてついてくる。公園でベンチに腰掛けると、ワタルくんはカバンから折り畳んだ紙を取り出し、
「本をいっぱい読んでるし、文章書くの上手そうだから」
読んでみて直したほうがいいところがあったら教えてほしい、と言う。いいよ、と私は軽い気持ちで渡された紙を開いた。そこには、決して上手ではないが丁寧な小さい文字でこんなことが書かれていた。
エリさま
お元気ですか。新しい学校はどうですか。
春の試合の帰りに、一緒にラーメン食べた時のことを覚えていますか。僕はあの時、君のことが好きだと言おうと思ったのですが、どうしても言えませんでした。君が引っ越してしまうのを知っていたので、君を困らせてしまうと思ったら言う勇気がありませんでした。
君は話すのがとても上手ですね。僕は本を読むのは好きですが、話すのは苦手です。言葉で自分の気持ちを伝えるのはとても難しくて、家族にも自分の気持ちをちゃんと伝えられません。
この手紙も、僕の気持ちを伝えられるか自信がありません。でも書きます。君の笑った顔が大好きです。稽古中は真剣な顔をしてい
るのに、終わりの礼の後、いきなり変な顔をして人を笑わせるところが大好きです。人の防具の臭いをわざと嗅いで、クサッ!と騒ぐのも好きです。お父さんお母さんと仲が良くて、小さい子にやさしいところも大好きです。
僕は最近、剣道部をやめました。剣道よりやりたいことがあるからです。僕は作家になりたいと思っています。人が何度も読み返したくなるような本を書きたいです。
君もいつか好きな人ができるだろうし、もう好きな人がいるのかもしれません。もう会えないけれど、君がずっと笑顔でいられるように願っています。僕のことも時々、思い出してくれるとうれしいです。
なんだ、勇気を出して告白すればいいのに、しょうがないなあ、などと思いながらも私は胸を打たれていた。つたないかもしれない、でも人を思う気持ちがあふれた手紙はどんな名作よりも深い。そんな風に感じたのだ。
私はゆっくり言葉を選んで、でも正直に言った。
「すてきなラブレターだね」
ほんと?と尋ねるワタルくんに私はほんとだよ、いい手紙だと思うよ、と答えた。ワタルくんは頰をちょっと赤らめて、見たこともないような笑顔を見せた。
「そうか、ワタルくんは作家になりたいんだね」
そう言うと急にワタルくんは下を向き、なりたいって言ってもどうしたらいいのかわからないし、と口ごもった。私は、自分はただ本が好きなだけだからよくわからないけど、と断ってから言った。
「私はね、本って全部、手紙だと思ってるんだ。小説だってノンフィクションだって、書いた人は誰かに何かを伝えたくて書いてるでしょ?だから本はみんな、手紙なんだと思う」
黙っているワタルくんに、私は続けた。
「エリちゃんにでもお父さんにでもいい、伝えたいことがあるなら、何でもいいからそれを書いてみればいいんじゃない?」
こんないい手紙が書けるんだから自信持ちなよ、と言った。ワタルくんは小さく頷いた。
ワタルくんはその日を境に、書店に現れな
くなった。お父さんに剣道部をやめたことを話して、家にまっすぐ帰るようになったのかもしれない。エリちゃんにあの手紙を送って、遠距離恋愛が始まったのかもしれない。きっとワタルくんは新しい毎日を進んでいるんだろうな、と思った。ちょうどその頃事業所に新人が赴任してきたせいもあり、私も書店から足が遠のいていった。そして3年後再び異動になり、私は東京に戻って結婚し、母親になった。
昨年息子が小学生になってから、私もようやく時々、自分の時間を持てるようになった。ウイスキーを楽しみながら本を読み、古い記憶をたどる。
ワタルくんは本当に小説家になってるかな。どんな本を書いてるかな。もちろん、本人は昔の夢なんてとっくに忘れているかもしれない。エリちゃんと結婚していいお父さんになり、仕事に追われているかもしれない。それでもいい、あんな手紙が書ける子だもの。大丈夫、きっとしっかり生きてるよね。
私は読みかけの本を閉じて、オン・ザ・ロックを飲む。
大人になったワタルくんと再会できたら、バーでウイスキーを飲みながら本の話でもしたいな。そんな妄想とともに、夜は更けていく。