23時。オン・ザ・ロックをつくって、自分の部屋に入る。妻と娘はリビングでテレビを観ている。
一緒に部屋に入ってきたのは、豆柴のメロだ。娘が大きくなって遊んでくれなくなったせいか、最近は僕にかまってほしくてくっついてくる。
「おいおい、こんな時間に遊べないよ」
メロをいなしながら、いつものようにラジオをつけた。この時間は、ゆっくりウイスキーを舐めるにはちょうどいい、落ち着いた音楽をかけてくれる。
イメージ通り静かな曲が続き、3曲めぐらいだろうか。フルートとも違う、やわらかな笛の音が鳴り始めると、それまで落ち着きのなかったメロが急に静かになった。耳を立てて目を細めている。どうした?と声をかける間もなくメロはスピーカーに近寄り、喉の奥からくぉーんという音を小さく響かせた。
よしよし、とメロの頭を撫で、この音が気に入ったのかな、と思った僕はハッとした。
もしかしたら。
忘れかけていた夏の記憶が、一気に蘇った。
大学3年の夏休み。僕はある村の民宿で
1ヶ月ほど、住み込みのアルバイトをしていた。標高800メートルほどのその村には、大きな観光施設こそなかったが温泉があり、夏は避暑客が訪れる。僕の仕事は掃除や朝晩の食事の配膳、片付け。近所の畑で収穫された野菜を運ぶ、など雑用もあった。
民宿は野菜畑や牧場に囲まれた、静かな場所にあった。お客さんがいなければ、自然の音以外に聞こえるのはキャベツを載せたトラックが行き来する音ぐらい。民宿の裏の森の先に音楽大学の宿舎があり、学生たちが練習する楽器の音が、かすかに風に運ばれてくることもあった。
「これでもにぎやかなほうさ。夏が終わりゃ、人より動物に会うほうが多いくれぇだ」
と、民宿の親父のタカさんは笑った。確かに昼間はほとんど動物に会うことはなかったが、夜になると裏の森からは、ほーほーというフクロウの声と一緒に、ガサゴソ何かがうごめく音や不思議な唸り声が聞こえてきたものだ。
もともと人間が少ないわけだから、村の人たちと知り合うのも早かった。村役場を辞めてこの民宿をひらいたタカさんと、ふっくら丸顔でかわいらしい、奥さんのミチヨさん。
ご主人を亡くした後、女手一つで遺された畑を切り盛りしている農家のセイさん。酪農家のトモさんは、「COWを飼うオレ、カウボーイ」なんていう、オヤジギャグの名人。ちょっと天然で時々お釣りを多くくれる、雑貨屋のケイコさん。
そして、アツシさんだ。全財産をはたいて、音大の宿舎のそばにある伐採された森の跡地を買い、そこに黙々とナラの苗木を植えているらしい。ニコニコしながら木に話しかけているところを何度も目撃されており、あいつは女性より木が好きなんだんべ、と言われていた。
「ここらにリゾートホテルを建てようってんで、土地を売ってくれって会社が頼みにきたのに、断ったらしいぞ」
そんな話も耳にした。そう言えば村の中でも開発中なのか、掘り返された大きな木の根がゴロゴロ転がっている空き地を何カ所も見かけた。
村の人たちはみんな仲が良く、僕のようなよそ者にもやさしかった。退屈なくらい平和な場所だな、と僕は思っていた。
やわらかな笛の音は、まだ続いている。
ある程度歳をとらないとわからないことって、あるもんだよな。音楽に聴き入っている(ように見える)メロに、僕は同意を求めた。若かった僕は退屈なほどの平和がどれほど貴重か、ちっともわかっていなかった。だから、あの村のことも不思議な笛の音のことも、すっかり忘れていたのだ。
ウイスキーを味わいながら、僕は記憶の中の音に耳を傾けた。
8月の終わり、ある午後のことだ。ひと組だけだったお客さんが帰ったあと風呂掃除をしていると、タカさんがひょいと顔を覗かせた。
「これから、コンサートあるんさ。来るかい?」
コンサート?誰か来るんですか?面食らう僕に、違う違う、とタカさんは首を振った。
「アツシのコンサートさ」
アツシさんは音楽家なんですか、と驚く僕に、
「そんな上等なもんじゃないけど、いい笛を吹くんさ」
とタカさんは答えた。笛と言われても学校のリコーダーしか思い浮かばずキョトンとして
いる僕に、まぁよかったら聴きにきな、場所はアツシの空き地、と言ってタカさんは出かけてしまった。
忙しい夏の間、風に乗ってくる音楽を聴いて過ごしているうちに、アツシさんも村の人も音楽好きになったのかな、と僕は思った。風呂掃除を終え、アツシさんとこに行ってきます、とミチヨさんに声をかけ、出かけた。
夏の夕方、森の間の道を自転車で走るのは気持ちよかった。風にそよぐ木々の葉が、さらさらと音を立てている。うるさいほどの鳥たちの囀り。誰かが身につけた、カラコロという熊よけの鈴。さようならー、と言い交わす子どもたちの元気な声。のんびり鳴く牛たち。ラッパみたいに響くキジの声。それこそ音楽みたいだった。
アツシさんの空き地に着くと、村の人たちが集まっていた。農家のセイさんや「飼うボーイ」トモさんたちだけでなく、僕が知らない人たちも切り株や草の上に座っている。そしてその中央に、アツシさんがいた。
おお来た来た、とタカさんが僕に気づくと、アツシさんは、そろそろ始めます、と大真面目な顔で言った。皆がやさしい拍手を送る。
静寂が訪れると、アツシさんはゆっくりと手に持った枝のようなものを口元に近づけた。そうか、アツシさんは木の笛を吹くのか。
やわらかな笛の音が低く響き始めると、空き地をぐるりと囲んだ木々が一瞬ざわめいたような気がした。笛の音に森全体が目覚めたかのようだった。その後の出来事は、もう今となっては信じがたい、としか言いようがない。アツシさんの笛に誘われるように、次々と動物たちが姿を現したのだ。
するすると音も立てずに茂みから出てきたのは、狐。その太い尾っぽの先にはウサギが、長い耳をピクピクさせて立ち上がっている。がさごそと飛び出したのは、イノシシの親子。ウリ坊を従えた母親の小さな目が、キラリと光る。木の幹を走るリスを追って目線を上げると、じっとこちらを見ている黒い丸い瞳と目が合った。それが立派な角を戴いた雄鹿だと気づいて、僕は思わず叫びそうになった。そして最後に、ひときわ大きな黒い影。おそらくあれは・・・熊に違いない。
これは一体何のマジックだ?サーカスか?と誰かに尋ねたかったが、村の人たちは誰ひとり驚いた様子もなく、静かに笛の音を聴いている。動物にしか聞こえない周波数がある
んだっけ、などと思う間もなく、僕はアツシさんの笛の音に引き込まれていた。音は決して大きくないのに、牧草地のまわりの木々をやわらかく震わせ、森の隅々にまで届くようだった。
笛の音が終わると、動物たちは静かに姿を消した。ミノルさんも村の人たちも、またおいで、と微笑みながらそれを見送っていた。
この後どうやって民宿に帰ったのか、僕の頭からは記憶がすっぽりと抜け落ちている。あまりに不可解な現象を見たせいで、一種のショック状態だったのかもしれない。その後数日でバイトは終わり、僕はあの笛の音を再び耳にすることなく、東京での学生生活に戻っていった。
就職活動は順調に終わったが、社会人になった途端、僕は否応なく厳しい現実の中で生きることになった。不良債権とか経営破たんとか、そんな言葉が飛び交った時代だ。
いつ頃だったか、出張であの村の近くの町まで行ったことがある。微かにあの夏の不思議な出来事が頭をよぎったが、まったく現実味が湧かなかった。きっと何かの勘違いだったんだろう。僕の意識の中で、あの夏は遠い夢のようにフェイドアウトしていった。
笛の音が終わり、ラジオからは曲の解説が流れている。
あの村が一度はリゾート開発されたものの、すっかり過疎化してしまったこと。村の人たちが音楽で村おこしをしようと考え、苗木が育ってできたナラの森に小さな音楽堂を作ったこと。そこで行なったナラの木笛のコンサート映像がネットで話題になり、遂にアルバムまで作られたこと。
まるでナラの森の奇跡、とも言うべきお話ですね。と、DJは話を締めた。そう、あの村は奇跡の村、遠い山の果てにある桃源郷なのだ。
いつかまた、あの村を訪ねてみよう。お前も一緒に行こうな、とメロに声をかけ、僕は2杯目のオン・ザ・ロックを作りに立ち上がった。