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本コンテンツは2014年10月に産経ニュースサイト上で、
連載コラムとして紹介されたものです。
政孝とリタは英国の首都ロンドンで摂津酒造社長の阿部喜兵衛を迎えた。結婚を思いとどまるよう説得することも考えていた阿部だが、リタや結婚を許す気持ちになったリタの家族にもてなされるうちに考えを変えた。阿部は「(リタは)優しい人だし、それになかなかの美人だね。日本に連れて帰るように」と言ったという。
阿部とのフランス、イタリア、スイス、ドイツ視察を終え、リタを伴って英国から米・ニューヨークへ。ニューヨークからシアトルまで陸路を進んで、船で日本へ。横浜港に到着したのは1920年(大正9年)11月だった。
大阪の姫松(現・帝塚山)には、阿部の配慮で洋式トイレ付きの貸家が用意されていた。しかし、第一次世界大戦後の恐慌で、摂津酒造のウイスキー製造計画は棚上げにされていた。「規模は小さくても一日も早く本物のウイスキーづくりがしたい」と迫る政孝の気持ちは理解できたが、摂津酒造には、製品を売り出すまでに長い時間のかかるウイスキーづくりに乗り出す経営的な余裕は残っていなかった。
「本格モルトウイスキー醸造計画書」が役員会で否認されたことを受け、辞表を提出した。「しばらく浪人をしようと思います」と頭を下げる政孝に、阿部は「そうか、辞めてしまうんか」と沈んだ声で応じたという。
政孝は自宅近くの中学校の化学教師、リタも私学の英語教師、英語とピアノの個人教授をして過ごす。船旅の間から、はしの使い方など和風の生活習慣を積極的に身につけようと努力したリタだったが、この時期に、和食の料理法や和服の着付けも本格的に勉強するようになる。政孝が竹鶴ノートを書くことでウイスキーづくりやスコットランドの生活様式を学んだように、リタも日本の生活習慣や文化をどんどん吸収していった。
北海道余市町にある旧竹鶴邸内には、リタが漬けた梅干しが瓶ごと残されている。ウイスキーの品質同様、食べ物にもうるさかった政孝のために、自らの手でおいしいものをつくろうとしたリタの愛が伝わってくる。
帝塚山の自宅にはピアノを習いに来る子供たちの明るい笑い声が絶えなかった。政孝は「小さな女の子のピアノの音、リタの明るい声などにつつまれて、私にウイスキーづくりを離れたさびしさを忘れさせるほど、家庭的な明るい数カ月であった」と回想している。
日本では「故郷の空」や「麦畑」として知られるスコットランド民謡「Comin’ Thro’ the Rye」や、「蛍の光」の原曲である「Auld Lang Syne」を歌うリタの声に、失意の政孝も励まされたに違いない。
そんなある日、政孝とリタの前に運命の男が現れる。寿屋社長の鳥井信治郎だった。
摂津酒造も以前に製造を委託されていた「赤玉ポートワイン」という看板商品をもつ鳥井は、次の一手としてウイスキーづくりを考えていた。商社を通じてスコットランドからの技師招聘を打診したが、「日本にはいい人物がいる」と回答された。
その日本人が政孝だった。「いずれ本格的なウイスキーの時代が来る」。そう考えていた鳥井は慎重論を押し切る形で、政孝の採用を決めた。ウイスキーづくりはすべて任せる。10年間働く。年俸は4000円。スコットランドから技術者を招くための年俸で、大卒者の平均月給が40円―50円だった時代だった。
摂津酒造を退社して1年も経っていない。逡巡はあったが、自らの手でウイスキーをつくりたいという思いはそれを上回っていた。工場の立地、施設や設備の設計と調達、生産計画の策定と原料の入手、技師や職工の採用…準備すべきことは山のようにあった。
「赤玉」の販売促進のために、話題性のあるポスターを展開するなど、宣伝を重視していた鳥井は、顧客の見学が容易な大阪近郊に蒸溜所を建てるべきだと考え、最終的には、候補地の中で良質な水が豊富にあった山崎への蒸溜所建設が決まった。
一部の設備は英国に発注したが、ポットスチルを含めて国内で調達することにした。ウイスキーづくりの知識と経験があるのは政孝だけ。すべてを「竹鶴ノート」で再確認しながらの孤軍奮闘が続いた。
「でき上がった蒸溜機二台を運ぶのもまた一仕事であった。直径三・四メートル、高さ五・一メートルの銅の釜である。陸上輸送はとても無理なので、船に乗せて淀川をさかのぼった。上山崎で船から降ろし、そこからはトロを使い馬に引っぱらせて大ぜいで運んだ。工場予定地に行く途中に東海道線があって、これが難関だったが、駅と話し合って汽車の間隔のいちばんながい夜半を選び、線路越えをしてようやく運んだのが思い出される」(『ウイスキーと私』)
用地買収から一年あまり。山崎工場の竣工式は関西の名士、業界関係者、報道関係者を招いて盛大に行われた。
初代工場長に就任した政孝は、故郷の広島から日本酒の杜氏を呼び、自ら範を示しながら職工として再教育した。工場敷地の山側の、つづら折りの坂を上ったところに職工たちの宿舎、その先に工場長社宅が建てられた。
帝塚山から引っ越してきたリタは、ときには弁当を持って、ときには外出の前後に、工場を訪れた。「夢を共に生きる」と言ってくれた最愛の妻の励ましを受けながら、政孝の夢への挑戦が続いた。
1924年(大正13年)12月から河内産大麦による麦芽製造がスタート、糖化、発酵の過程を経て、翌25年(同14年)1月に2度の蒸溜過程を迎えた。ポットスチルから透明な本溜液が出てくる。熟成させるための貯蔵過程は残っていたが、政孝が夢にまで見たジャパニーズウイスキー誕生の瞬間だった。ウイスキーづくりを志して摂津酒造に入社してから9年、政孝は30歳になっていた。
酒樽に詰められた原酒は、さらに4―5年かけて熟成される。先は長かった。山崎工場には原料の大麦や空樽が運び込まれるだけで、何も出荷されなかったため、周辺の住民や出入りの商人たちも首を傾げていたほどだった。
政孝はできたばかりの原酒のサンプルを持ってスコットランドを再訪した。キャンベルタウンで再会したイネス工場長は、サンプルを何度もテイスティングして「よくやった」とほめてくれたという。
「化学者と化学者の魂がふれ合うときこそ、夕日を一杯に吸って赤くなった静かな海のような心のやすらぎをおぼえるものである」。政孝はこんな文学的表現で、自らの運命的な出会いへの感謝を綴っている。
原酒が誕生してから4年後に、「サントリーウイスキー白札」が発売された。時代は大正から昭和へと移っていた。
だが、「白札」は日本人が本物の味に慣れていなかったのか、ウイスキー特有の香りも「焦げ臭い」といわれ、日本人には広がっていかなかった。政孝は「このとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである」と述懐している。とはいえ、当時は、悔しさも味わったようだ。
鳥井は政孝に「日本人好みの味」にするよう要求した。
『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、鳥井は「お客はんが買うてくれへんようなウイスキーはウイスキーやあらしまへん」と迫ったが、政孝は「いまは舌が慣れとれへんだけで、旨い酒は誰が飲んでも旨いはずだす」と反論し、一歩も譲らなかったという。
考え方の違いは二人の距離を少しずつ広げていったようだ。
1931年(昭和6年)4月には、山崎工場に日本産業協会総裁だった伏見宮博恭殿下をお迎えして、無事に案内役を務めた。殿下は海軍武官として2年半ほど英国に駐在されたことがあり、日本初のウイスキー工場に大変興味を持たれた様子だったという。政孝や鳥井のジャパニーズウイスキーづくりへの努力が報われた瞬間だったであろう。
10年間という約束だった寿屋での仕事が12年目を迎えようとしていた1934年(昭和9年)3月、政孝は退社した。
北海道余市にはアイヌ語で「海中に突き出す山の頭」を意味するシリパ岬がある。その風景は政孝とリタが新婚時代を過ごしたキャンベルタウンの景色にそっくりだった。振り返って見る余市の丘はカーカンテロフの北側に広がる丘の姿によく似ていた。
寿屋を退社した政孝は、気候や湿度、水を含む原料や燃料の調達など、ウイスキーづくりの諸条件が整った余市を、自らの理想を実現するための場所に選んだ。ウイスキーはつくられる場所の自然環境の影響を強く受ける酒だ。風景がスコットランドに似ていたことも余市を選んだ理由のひとつだったのだろう。
リタが英語の個人教授をしていた関係で知り合った加賀証券社長の加賀正太郎、かつて住んでいた大阪・帝塚山の大地主である芝川又四郎、英国時代に知り合った伯爵の柳沢保恵の3人が出資を約束してくれた。
すぐに出荷できるリンゴジュースを製造・販売しながら、ウイスキーづくりを進める。大日本果汁株式会社が設立され、政孝は専務に就任した(1943年に社長、1970年に会長)。
余市はニシン漁と露ウラジオストックへのリンゴ輸出で一時は栄えていたが、ニシンは不漁が続き、リンゴ輸出もロシア革命後にとまっていた。政孝がリンゴジュースをつくりはじめると、見栄えの悪いリンゴでも買い取ってくれると評判になり、工場の倉庫に入りきれないリンゴは敷地内にうずたかく積まれた。
しかし、あくまで品質にこだわった100%果汁のリンゴジュースは売れ行きはいまひとつだった。道内のめぼしい病院では入院食につかってもらえるようになったものの、大消費地である東京や大阪に船で運ぶ間にラベルの糊がかびたり、多糖類であるペクチン質が固まって沈殿したりした。返品が相次ぎ、ペクチン質沈殿の件では、清涼飲料営業取締規則違反として警視庁本富士警察署に呼び出されもした。
経営的には赤字だったが、2年後には待ちに待ったウイスキーづくりに着手した。ジュースだけでなく、アップルゼリー、グレープゼリー、アップルソース、アップルワインと、手を変え品を変えて、時間のかかるウイスキーづくりを支えようとした。
1940年(昭和15年)、ついに角瓶入りの「ニッカウヰスキー」発売にこぎつけた。馬車に積まれて蒸溜所の門を出るウイスキーの荷を、従業員全員が整列し、最敬礼で見送ったという。
「北海道でつくった初めてのウイスキーも原酒が若いため、ブレンドには苦心があった。しかし独立後、初めて世に問う作品として、会心とはいえないが、私にはやはり感激であった」(『ウイスキーと私』)。大日本果汁の「日」と「果」をとって名付けられた商品名の「ニッカ」は、1952年(昭和27年)に社名となり、その後の「ニッカブランド」の礎となる。
戦時中には海軍の指定工場になり、ウイスキーの原料となる大麦の配給も継続的に受けられた。だが、戦後は、物資が欠乏し狂乱ともいえるインフレが襲った。本物のウイスキーは闇でしか買えないようになり、原酒が一滴も入っていない偽物のウイスキーも出回った。そんな中、1949年(昭和24年)には配給と価格統制が終わり、自由競争時代に突入した。主役は原酒5%以下の三級ウイスキーだった。
質にこだわった政孝は三級ウイスキーづくりを潔しとせず、貯蔵していた原酒をブレンド材料として他社に販売するなどして、いったんは経理を立て直した。しかし、一時しのぎに過ぎず、しばらくすると、従業員の給料を払うのに困り、税金も滞納するという以前の経営状態に戻ってしまった。
社員を路頭に迷わせても理想に殉じるか、理想を棚上げしても生き残るか―。『ヒゲのウヰスキー誕生す』や『ウイスキーと私』によると、取引銀行の支店長からも、国税庁の初代長官で親交のあった高橋衛からも、さらには、大株主である加賀からも、三級ウイスキーを売り出すべきだと忠告された。とくに加賀からは「よろしいな。売れるウイスキーでないとあきまへん。三級ウイスキーを出しなはれ。これは株主の総意として聞いてもらいまっせ」と最後通牒を突きつけられたという。
苦悩の末、政孝は余市蒸溜所の集会室に全従業員を集め、「本格ウイスキーしかつくってこなかった誇りを忘れないでほしい」と訓辞したうえで、三級ウイスキーに乗り出すことを宣言した。1950年(昭和25年)の初夏。その目には光るものがあった。
1949年(昭和24年)の4月には、養子に迎えていた甥の威が北海道大学工学部応用化学科を卒業して大日本果汁で政孝とともに働き始めていた。それに先だって、政孝とリタは居宅を蒸溜所内から1・3キロ離れた山田村(現・余市町山田町)に移しており、1951年(昭和26年)には威が結婚して、嫁の歌子も一緒に暮らすようになった。
北国である余市の春は遅い。だが、必ず、春は訪れ、リタが自分で手入れした庭には、一斉に花が咲き乱れる。クロッカス、ラッパスイセン、エゾムラサキツツジ…。リタは弁当を届けに蒸溜所への道をたどった。自転車での行き帰り、スコットランド民謡の「Comin’ Thro’ the Rye」や「Auld Lang Syne」も口をついて出たに違いない。それも日本語の歌詞と共に。
政孝との結婚直後に日本に帰化していたリタだが、戦時中には特別高等警察(特高)に尾行されたり、子供たちに囃し立てられたりした。それでも、リタは日本人以上に日本人になろうとした。梅干しも漬けたし、冬の備えに大根も漬けた。卵かけカレーライスも従業員には好評だった。ニシン漬けも材料の買い出しからすべて自分の手でつくりあげ、イカの塩辛は漁師たちがつくったものと同じくらいおいしかったという。蒸溜所の従業員慰安会の際には、ドーナツを大量につくって喜ばれた。できたて、とれたてにこだわった政孝のために、ジャガイモ掘りを含めて材料の調達から調理、配膳まで、政孝の食事の時間に合わせた。政孝は日本酒の晩酌とともに和食、リタと威夫婦は洋食だったが、リタは料理にこだわり、すべて自分の手でやらないと気が済まなかった。政孝の帰宅時刻が近づくと、台所は戦場のようだったといわれる。食事が終わると、政孝は就寝までの時間、ウイスキーグラスを傾けて過ごした。一日に500ミリリットルほどが入ったボトル一本が定量で、傍らにはリタの姿があった。キャンベルタウンで過ごした新婚時代のように。
梅干しも漬けたし、冬の備えに大根も漬けた。卵かけカレーライスも従業員には好評だった。
ニシン漬けも材料の買い出しからすべて自分の手でつくりあげ、イカの塩辛は漁師たちがつくったものと同じくらいおいしかったという。蒸溜所の従業員慰安会の際には、ドーナツを大量につくって喜ばれた。
できたて、とれたてにこだわった政孝のために、ジャガイモ掘りを含めて材料の調達から調理、配膳まで、政孝の食事の時間に合わせた。政孝は日本酒の晩酌とともに和食、リタと威夫婦は洋食だったが、リタは料理にこだわり、すべて自分の手でやらないと気が済まなかった。政孝の帰宅時刻が近づくと、台所は戦場のようだったといわれる。
食事が終わると、政孝は就寝までの時間、ウイスキーグラスを傾けて過ごした。一日に500ミリリットルほどが入ったボトル一本が定量で、傍らにはリタの姿があった。キャンベルタウンで過ごした新婚時代のように。
孫が生まれると、竹鶴家は子供たちの明るい声に包まれた。『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、リタは、孫たちがものごころつかないうちから、自分のことを「おばあちゃん」、威と歌子を「お父さん」「お母さん」と呼ぶよう繰り返し教えていたという。
リタの徹底した愛と明るい家庭に力を得ながら、政孝の苦闘は続いた。
取引先である卸問屋を招待した宴席で、ニッカウヰスキーの品質を誇り、「ニッカのよさをわからん方には売っていただく必要はありません。その代わり、売って下さる限り、他社と較べ何故容量が少なく価格が高いか、よく認識していただきたい」と苦言を呈したこともあったという。いい品質のものはそれなりの値段でなければいけない。いずれわかってもらえる。政孝はそう考えていたようだ。
東京に本社を移転し、社名をニッカウヰスキーに変更した。しかし、三級ウイスキー(1953年の酒税法改正で二級ウイスキーと呼称が変わる)を主役とする他社との“ウイスキー戦争”は依然として続き、大株主だった加賀は自らが病床にあったこともあって、保有株式をすべて朝日麦酒(現・アサヒビール)の山本為三郎に売却された。
山本は政孝のスコットランド留学を神戸港で見送った旧知の間柄であり、ウイスキーづくりは政孝に任せてくれた。政孝は特級の「ゴールドニッカ」「ブラックニッカ」を相次いで世に問うが、売れ行きはいまひとつだった。
56年(昭和31年)11月、山本の推薦で入社した彌谷醇平の意見を受け入れ、価格を他社並みに抑えた二級の「丸壜ウヰスキー」(通称・丸壜ニッキー)を発売した。東京や大阪の繁華街に「トリスバー」や「ニッカバー」が相次いででき、ウイスキーの消費量もぐんぐん上がった。「丸壜ニッキー」は「トリス」に次ぐ、全国商品となった。
かつて乗馬やテニス、スキー、散歩とアウトドアを愛したリタの健康がすぐれなくなったのはこのころだった。午後3時のお茶だけは自分自身の手でいれなければ気が済まなかったが、家に閉じこもる生活が続くようになった。
そして、61年(昭和36年)1月17日、リタは政孝に看取られながら永遠の眠りについた。肝硬変。64歳になったばかりだった。
「もし私とではなしに、英国人と結婚して英国で生活していたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締めつけた」
「食事から風俗習慣まで、まるきり違う大正時代の日本にやって来て、一生懸命、日本人になろうとして努力した妻であっただけに、いっそういとおしく、しばらくの間はショックが続いた」
政孝の回想だ。政孝は葬儀の準備など一切を威に任せ、2日間、自室から出てこなかったという。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。蒸溜所では「過去に感謝」し、「未来を信じる」ウイスキーづくりが進んでいる。ニッカウヰスキーの経営もようやく好転してきたばかりだ。政孝が挑戦しなければならないことは、まだまだ残されていた。
カーカンテロフの丘から見た風景とそっくりの、美園の丘に建てた墓石に、政孝はリタの名とともに自らの名を刻み込んだ。いつの日か自分もそこに眠ることを約して…。
(第3章終了)
※動画内の商品には終売商品を含みます。
エピローグ
リタが亡くなったあとも政孝は戦い続けた。ニッカの代表的銘柄となる特級の「スーパーニッカ」を発売、カフェ式連続蒸溜機を西宮工場に導入してグレーンウイスキーをつくり、国産で初めてのブレンデッドウイスキー「ハイニッカ」(二級)、新「ブラックニッカ」(一級)をつくりあげた。自ら視察した英国の蒸溜所を例に出し、資金面も含め、グレーンウイスキーづくりを全面的に支援してくれたのは、朝日麦酒の山本為三郎だった。第1章で触れた「とびら」が、また、自ずと開いていってくれた。
1969年(昭和44年)仙台市に宮城峡蒸溜所が完成した。余市をスコットランドの「ハイランド」と位置づけるなら、仙台は「ローランド」といえた。味わいの違うモルト原酒を混合することで、より味わい深いウイスキーが生まれる。そのうえで、グレーンウイスキーをブレンドすれば、飲みやすくなるだけでなく、味はさらに深淵になる。
「ホワイトニッカ」(一級)、「ゴールド&ゴールド」(特級)に続き、76年(昭和51年)には最高級ウイスキー「鶴」(特級)を発売した。
79年(昭和54年)8月29日、政孝は入院していた順天堂大学付属病院で肺炎のために亡くなった。享年85歳。入院中も「特別扱い」でウイスキーを飲むことが許された。ボトル半分程度を水筒に入れ、毎日、秘書が病床に運んだという。
明治に生まれ、大正、昭和を駆け抜けた「マッサン」が初めてこの国に持ち込んだウイスキーづくりは、今もなお多くの人々によって受け継がれている。
スコッチウイスキーに勝るとも劣らないウイスキーをつくる―。一人の青年の大きな夢は、「シングルカスク余市10年」など6銘柄が世界一になったことや、ジャパニーズウイスキーが世界の5大ウイスキーとして定着したことで実現された。
政孝の「武士道」の精神と、リタの「騎士道」の精神、そして、二人の、すべてを超越した愛が、夢を現実のものにした。
ウイスキーをたしなむ一人の日本人として、今宵、感謝の言葉とともに、二人に杯を捧げたい。ありがとう!
(全編終了)