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竹鶴政孝物語 第1章

【第一話】
苦悩をつきぬけ、歓喜にいたれ

時がたてば苦悩も楽しい思い出に変わるものだ。
あの時はあんなに悩み、絶望の淵に立つ思いであったのに、今となればそれが必然にすら思える。 時の効用である、降り積もる時間のめぐみである。

時折さらさらと吹きつける雪の音に、窓辺の政孝は我にかえった。街灯に斜めの軌跡を照らしだされていた雪片の動きに見とれていたのだった。窓の枠には雪が優しく降り積もっている。すこしくすんだ硝子に政孝の憔悴しきった顔が映っている。
「このままでいいわけがない」
グラスゴーにきて、どれくらい経っただろうか。またこの言葉を何回つぶやいたことだろう。街のあらましがひととおり頭に入った頃、政孝の悩みは頂点に達した。あてにしていた大学に、ウイスキー醸造に関する専門的講座がないのである。こんな遠くまで来て引き返す訳にもいかず、派遣してくれた摂津酒造の阿部社長の顔が、さっきから浮かんでは消えていった。

夢の旅立ち

「竹鶴君、本場に行って勉強してきてくれないかね」
 脇にある地球儀をゆっくりまわしながら阿部は積年の夢を語りだした。その夢は政孝自身の夢でもあった。
「これからはきっと、本格ウイスキーの時代が来る。その時になってからでは遅い。準備をしておきたいのだよ」
「社長、スコットランドですね」
「そう、スコッチ・ウイスキーの故郷さ」
 念を押すまでもなかったが、政孝は阿部の瞳の奥のやさしい光に応えた。
 さっきまでの蝉の声が一瞬鳴きやみ、静寂が二人を包み込んだ。政孝は鳥肌が立つのを覚えながら、ウイスキーづくりの理想郷スコットランドの風土に、精一杯の想像力をめぐらせた。
 一九一八年、政孝はひとりスコットランドにむけて船に乗り込んだ。万年筆と日本のウイスキーの未来を携えて。

日々つのる焦躁の念

「このままではいけない。どうにか実地の研究にとりかかり、一日も早く国産ウイスキーをこの手でつくらねば」  焦りと空回りの感覚が政孝の心をくもらせた。  大学のウィルソン教授から推奨のあったネトルトンの大著『ウイスキー並びに酒精製造法』も何度か読み終えた後のことだった。書物だけでウイスキーがつくれるわけがない。実家がつくり酒屋だった政孝は、酒は手でつくるもの、もっといえば心でつくるものだということが骨身にしみていた。幼い頃からの父の口癖が耳を離れたことはない。 「酒はな、一度死んだ米をこうしてまた生き返らせてつくるもんじゃ」  それだけに、グラスゴーでの座学はこたえた。ハイランド地方の蒸溜所に軒並み実習願いを投函し、じっとしていられなくて自ら蒸溜所を訪ね歩いたりもした。

初めて開かれた重い門

苦悩と憔悴の極みにあった政孝のもとに、一通の手紙がまい込んだ。ロングモーン蒸溜所からの工場実習の許可通知であった。北緯五十七度を優にこえる北の蒸溜所からの通知は、天からの便りにも似て政孝の心を鼓舞してあまりあった。  途中いくつもの渓谷をわたり、紫色のヘザーの花が咲き乱れる丘陵を過ぎ、グランピアンの山々をこえた。このあたりは、ハイランドでも著名な蒸溜所がひしめく一帯である。黒っぽい石壁に看板が埋め込んである正面の階段を上がり、高鳴る胸をおさえて金色にかがやくノッカーを鳴らした。 「竹鶴政孝です。よろしくお願いします」 「君のことはグラスゴー大学からの資料でわかっています。しっかり実習してください」  穏健だが毅然とした工場長は分厚い手で握手しながら「ミスター・タケツル、きみの鼻はすばらしい。ウイスキーづくりに鼻は大切だ」と顔のまん中をほめてくれた。  白衣のポケットにノートをしのばせて、来る日も来る日も、朝から夜遅くまで現場を歩きまわり、人の嫌がる仕事も勉強だと進んでこなした。だが、肝心の蒸溜器には外国人の政孝は容易には触れることすらできなかった。ある夜、熱心に勉強する政孝の熱意に動かされたひとりの年老いた職工が、蒸溜器の操作を手ほどきしてくれた。この老職工がいなかったら、日本で本格ウイスキーは永遠につくれなかったかも知れない。政孝は歓喜に胸が高鳴った。 「いいかね、バルブをゆっくり開けるんだよ。眼を閉じてごらん、蒸溜釜の中の様子が見えるかね」 「いいえ」 「そうかい、いま蒸溜液が動いとる。わかるかね。体を耳にするんだ、体全体を」  現場での心得をこの老職工から学び、一つひとつ積み上げていった。海綿が水を吸うように、いつしかノートにはびっしりと設備のことや、操作の注意などが書き込まれていった。  蒸溜所での技術修得を順調に進めるうちに、政孝は、『ウイスキーを決定するのは技術だけではなく、大麦、水などの自然であり、その自然を敬び酒をつくり上げる人間の心、そして熟成させる時である』という生涯抱き続ける考え方にまで辿り着いた。  この実り豊かなスコットランドでの体験は、政孝に大きな自信と、もうひとつ粋な贈り物を与えることとなった。生涯連れ添うことになるリタとの出会いである。