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「ニッカワ」との出会い

第8回

「ニッカワ」との出会い

「感謝を込めて、この酒を川に注いできてくれ」第2の蒸溜所誕生

戦後の混乱を経てブーム到来

昭和四(一九二九)年、竹鶴政孝が寿屋(現サントリー)勤務時代に発売した日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」は、売れなかった。九年、大日本果汁株式会社を設立して最初に作ったリンゴジュースも売れなかった。
では、十五年に自らの手によって発売した第一号ウイスキー「ニッカウヰスキー」の売れ行きはどうだったのか? 実はその答えはない。発売二カ月後にウイスキーなどはぜいたく品として製造販売が制限されるようになったからだ。政孝のウイスキー人生は、時代の波にもまれ、紆余(うよ)曲折が続いた。
余市蒸溜所(北海道余市町)は、海軍の指定工場になり、ウイスキーは海軍が買いあげることになった。
ただそのおかげで、物資が乏しい時代も大麦の配給を受けることができ、後の財産となる原酒を作り続けることができた。
しかし、終戦とともに状況は一転する。
政孝の自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載「私の履歴書」に加筆、ニッカウヰスキー発行)によると「当時ウイスキーは配給価格で百二十円のものが、ヤミで千五百円もした。
一時は一本が米一俵の相場だといわれたこともあったが、会社はヤミ行為などできるわけがなく、本格ウイスキーは作るだけ損をするような変なことになった」という。
政孝は本物にこだわる技術者と経営者であることの葛藤(かっとう)に苦しむことになる。
昭和二十四年、酒類は自由販売となる。他社はアルコールに匂(にお)いと色をつけた三級ウイスキーを大量に作りもうけていた。当時、三級の定義は「原酒が五%未満、ゼロ%まで入っているもの」だった。
「イミテーション・ウイスキーはウイスキーではない。品質が良ければ高いのは当たり前」と主張する政孝にとって三級ウイスキーの製造は考えられなかった。
しかし、経営は苦しく給料も遅れるようになり、背に腹はかえられなくなる。
翌二十五年の春、全従業員を工場の広場に集めて、三級ウイスキーづくりを宣言する。
政孝の心中が分かる社員たちも、泣きながら黙って聞いた。
政孝は、息子の威(たけし)を三級ウイスキーの製造担当者とした。同年「スペシャルブレンドウイスキー」が発売される。五百ミリリットルで三百五十円。政孝の「せめてもの抵抗」で、原酒は上限ギリギリの五%まで入っていた。
二十七年、東京に本社を移し社名をニッカウヰスキーに変更。東京都港区の麻布に東京工場を建設するなど徐々に事業を広げていく。二十八年、酒税法改正で一級から三級の級分けは、特級から二級と変わった。
二十九年、大日本果汁の出資者、加賀正太郎と芝川又四郎は発行株式の半数にあたる持ち株を朝日麦酒(現アサヒビール)社長、山本為三郎に売却する。 山本は、営業強化のため弥谷醇平(やたに・じゅんぺい)というすご腕を送りこんだ。
米コロンビア大学で経営を学んだ弥谷は政孝に、価格引き下げを進言する。寿屋の二級「トリスウイスキー」は六百四十ミリリットルで三百四十円だった。しかしニッカの二級を同価格にすると、三割ほど原価割れした。

弥谷は「売り上げが全国で八七%伸びれば、黒字に転じます」と徹底的に数字を分析して主張。三十一年、新たに二級の「丸びんウヰスキー(通称丸びんニッキー)」を六百四十ミリリットル三百四十円で発表。初のテレビCMも放送した。
ちょうど、トリス・バー、オーシャン・バーなどが人気を呼び、洋酒ブームが到来していた。ニッカ・バーも追随。それに乗って丸びんニッキーは、大ヒットとなる。
三十六年一月、妻のリタが亡くなった。その喪失感から政孝を救ったのもウイスキーだった。息子の威と貯蔵庫にこもりティスティングをくり返し翌年、新作「スーパーニッカ」を発表する。
七百二十ミリリットルで三千円。大卒初任給の五分の一という高級品。余市蒸溜所で作った原酒からえりすぐってブレンドした自信作だった。翌年には二級の「ハイニッカ」を発売。
どちらも評判が良く、「ニッカ」は全国ブランドへと成長していく。

昭和四十二年、入社二十二年目の工藤光家は政孝と、仙台の奥座敷と呼ばれる作並温泉の近くの川のほとりを歩いていた。
政孝は工藤に、「ちょっと、その川の水をくんでこい」と命じた。
工藤が水を渡すと、香りを確かめ、ブラックニッカのポケットビンを取りだし水割りにして飲んだ。
「うまい!ここにしよう」
第二の蒸溜所の候補地を探していた政孝は、水の味で即決した。
そして、地元の農家に川の名前を尋ねた。
「ニッカワですよ」
二人は驚いた。
「工場建設計画が漏れたのかと一瞬思った。事前に分かると地価が上がったりしますから。ところが新川(にっかわ)という川だったんです。その縁にも驚きました」
新しい蒸溜所も政孝が設計した。平らにならせば合理的だが、起伏のある土地を生かし、できるだけ自然に手を加えないように指示した。木の一本一本にも「これは切るな」と印をつけて回った。
宮城峡蒸溜所は四十四年竣工(しゅんこう)。
最初の蒸溜を終えたとき、政孝は従業員全員を集め原酒のティスティングをした。
口に含み政孝は、「違うな」と言った。
「意に満たないものができたのか」とうなだれる従業員を前に、政孝はつけ加えた。
「これでいいんだ。北海道のものと違うからいい。これはおれが作ったのではない。この土地が作ってくれたものだ」
そして工藤を呼び、「感謝を込めて、この酒を川に注いできてくれ」と命じた。
工藤は涙をこらえながら川まで走り、できたての原酒をそそいだ。
=敬称略(田窪桜子)